edit

エニアグラム タイプ1:自己保存(SP1)

2025年3月30日日曜日

SP エニアグラム サブタイプ タイプ1 生得本能

エニアグラム・生得本能(本能のサブタイプ)サブタイプ別の詳細な特徴、海外書籍情報の翻訳・まとめ

タイプ1:自己保存(SP1)の詳細

生得本能・自己保存におけるタイプ1の「憤怒」

タイプ1の「憤怒」の情念が自己保存本能と結びつくと、その怒りは自分自身に向かうようになります。SP1の怒りは、完璧でないことに対する強い不安へと変わり、完璧でなければ生き延びられないという感覚を生み出します。これは無意識のうちに心理的な安心感を得るための反応でもあります。SP1は、タイプ1の中でも最も完璧主義的であり、かつ最も怒りを隠そうとするタイプです。しばしば、怒りをそのまま表現せず、外に向けて「温かみ」や思いやりを示すという特徴がSP1にはあります。彼らは怒りを表に出したくないと強く思っているため、その感情を直接的に示すことを避けます。また、彼らは自分が「汚れている」または「不十分である」と感じ、改善すべき点が多くあると考えがちです。そのため、常に過剰なプレッシャーを自分にかけることになります。しかし、その一方で、SP1の人々が自己批判的であると同時に、外の世界に対しても非常に批判的であることも珍しくありません。

イチャーソは、SP1を「不安」と呼びました。SP1は完璧でないことについて常に心配しているためです。自己完璧主義への強迫的な欲求を持ち、その完璧な基準を満たせないことへの絶え間ない懸念を抱えています。彼らの不安は、単なる恐怖ではなく、自己不完全性に対する持続的な懸念です。ナランホは、自己保存本能による怒りが「温かい自己主張」(穏やかで柔らかい自己主張であり、怒りを抑えながら行われる自己主張)へと変わると述べています。これは、道徳的に正しい行動を通じて自己主張が正当化されるという形態を持っています。したがって、彼らは自己主張を正当化させるために、美徳というのに相応しいだけの厳しい基準を自分自身に課します

特性の構造

Naranjo, C. (2024), "Ira", translated by Horus_who

内なる裁判官と罪悪感

SP1は攻撃的な側面を表に出すことを自分自身に禁じているため、そのエネルギーを批判的な態度へと変換します。彼らは非常に発達した「内なる裁判官」を持っており、それは自分を責め続ける内なる声として機能します。SP1はこの声を自分自身と同一視しており、この声が自分の一部のように感じられます。この厳格な内なる裁判官が、完璧主義のメカニズムを支えており、これがまるでレーダーのように、内外のあらゆる「誤り」を見つけ出し、厳しく裁こうとします。

そのため、SP1はほとんどすべてのことに対して自分を責めることに慣れています。内面での厳しい自己評価は、彼にとって唯一の防衛手段なのです。

SP1は自己に強く意識を向けるタイプであり、常に自分の存在が脅かされているように感じています。彼らの超自我は、抑圧された自我と対立する形で構成されており、彼らの自我はアイデンティティを守るために日々闘っています。彼らの自我は、自分の特性や限界を厳密に管理し、明確で揺るぎない自己イメージを保とうとします。それが、自分を安定させるために必要だからです。こうした心理的な防御の結果、SP1の自我は極端に発達し、緊張感を伴った、まるで鍛え上げられた筋肉のような存在になっています。

罪悪感は、SP1の最も顕著な特徴の一つです。内なる裁判官と罪悪感は密接に結びついており、罪悪感は、内向きに転じた怒りによって生じます。彼らは「自分は間違っている」と絶えず自分に言い聞かせ、その結果、ますます自分を責めるようになります。自己への要求水準が非常に高いため、「自分はこのままでいてはいけない」と感じ、ありのままの自分を受け入れたり、自分自身を愛したりすることが極めて難しくなります。

「私は、自分の内なる裁判官から罰を受けるとき、罪悪感を抱くことでそれを受け入れます。その裁判官は私を責め立て、私はその前で罪悪感を感じずにはいられません。そして、裁判官の言葉を信じ、それが真実なのだと受け入れてしまうのです。私の内なる裁判官は、壊れたレコードのように何度も繰り返します。『お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ……お前が間違っていた!』。私はいつも『もっと上手くできたはずだ』『別の選択をすべきだった』と考えてしまいます。結局のところ、私にとって最も重い罪とは、『私という存在そのものが罪である』ことなのです。だからこそ、私は何をしても責められ、何もしなくても責められます。結局のところ、私には、ただ穏やかに生きることが許されてません」―メルセ・ファルコ

「私は、自分の内なる裁判官とうまく折り合いをつけることができません。私とこの内なる裁判官は常に戦っています。まるで、裁判官が突然、私の頭の中を支配し、ほかのことが何も考えられなくなってしまうような感覚です。『お前が間違えたからだ』。そう責め立てられるうちに、私は自分にこう言いました。『分かった、私は間違えなかった。でも、私は間違えたんだ』。そんな自分に腹が立ちます。そして、腹を立てている自分自身にもまた怒りを感じます。なぜなら、そうやって自分を責めてしまうことに気づいていながら、どうしてもやめられないからです」―ブランカ・マルティネス

「私はかつて、海軍で航空管制官をしていました。ある夜、実験的な訓練をしていたヘリコプターが墜落し、艦船に衝突する事故が起きました。私は、その訓練の進め方を示す図を作成する役割を担っていました。事故が起きたとき、私の頭の中は、細部を確認することだけでいっぱいになりました。なぜなら、私は事前の飛行ブリーフィングに関わっていたからです。『私はすべて正しく説明できていたのか?』『どこかでミスを犯していなかったか?』。そう考え続けることで、罪悪感を少しでも和らげようとしていました。私がしていたのは、単に目を閉じて『自分に責任があったかどうか』をぼんやり考えることではありません。事実を何度も振り返り、どこかで間違いがなかったかを徹底的に検証することだったのです」―キケ・セグイ

SP1の中には、常に自分を監視し、責め続ける『裁判官』が存在します。そして、SP1は告発され、裁かれるべき『被告』として、罪悪感を抱え続けます。この自己否定の心理的欠陥は、自己価値を大きく傷つけ、その傷を補うために完璧さを追い求めることになります。SP1の精神世界においては、怒りを感じることは禁じられています。しかし、その代わりに、罪悪感だけは過剰に推奨されるのです。

SP1と比較対象となるタイプとして、極端な思考に陥りやすく、自己批判的になりがちなタイプであるSO6がいます。この二者を区別する視点は興味深いものです。SP1は、自分の考えに絶対的な自信を持ち、傲慢で本能的に行動します。SP1の自我は強固で、権威を振るう立場に自らを置く傾向があります。一方、SO6は慎重で迷いやすく、周囲に頼ることが多い性格です。SP1が「確信に満ちた強者」ならば、SO6は「規律や秩序に従うことで安心を得るタイプ」です。プロイセン的という表現が示唆するように、SO6は厳格なルールや強い権威に従うことで安定を求めるのです。

「私は、自分がさらに厳しくなるほど、より大きなフラストレーションを感じることに気づきました。私の内なる裁判官は、私が自分に対して下す判断に基づいて生きており、特に内面的に『溜め込んだ怒り』を悪として認識し、それを判断の材料にします。もし私が自分の感情を素直に表現したなら、その怒りをため込むことがなくなるので、裁判官は判断する材料を失うことになります。つまり、私の中の裁判官を解体するためには、まず自分が何を経験しているのかを言葉にして話すこと、そして他者の目に映る自分がどう見えるのかを認識し、それが自分をどう裁く材料になっているのかを理解することが大切です」

「私がすべての罪を負っていると信じるのは、傲慢なことです。まるで私が神であり、すべてが私の責任であると言わんばかりではありませんかか」―メルセ・ファルコ

SP1の罪悪感は、「自分は十分ではない」と感じる幼少期の経験と深く結びついています。そのため、彼らは自分に対して厳しく、過去の行動や「本来すべきだったこと」について絶えず責め続けます。「なぜ自分はあの時、もっと違う行動を取れなかったのか」と怒りを感じることがあり、最終的には自分の選択が最善だったと、どうにかして納得しようとすることもあります。また、重要なことに気づかなかった自分を非難することもあります。このような思考には、「自分が一番よく分かっている」「自分こそが正しい」という非合理的な信念が含まれます。

彼らは、恐怖と罪悪感が入り混じった感情を抱えていますが、それを表に出すことなく、非常に厳格な生活スタイルの中に隠しています。この生活は、予期しない出来事を避けるために設計されており、「強くあらねばならない」という厳格な自己規律を課す信念によって支えられています。彼らは「自分は何でもできる」という内面化された信念により、その強さを強化し続けます。しかし、この信念の裏には多くの恐れが隠れており、それに対して彼らは無意識のうちに反応してしまいます。SP1の意識は常に「自分はこれを正しくできているのか?」という疑念に集中しています。そのため、彼は自分の行動を厳しくチェックし、間違いがないかを監視し続けます。そして最終的には、「やはり自分は間違っている」と思わせる理由を次々と見つけてしまいます。さらに、SP1の高い自己要求は、次のような内なる声と結びついています。「自分は間違っているのではないか」「常に自分を監視しなければならない」「完璧でいなければならない」「自分には価値がないのではないか」という自己非難や自己評価に関する強迫的な思考があふれ、罪悪感を悪化させ、それと同時に、自らの完璧さと完璧なコントロールを求める行動へとつながっていきます。

「私の場合、それをうまくできなかったのは自分のせいです。良いか悪いかに関係なく、物事はきちんとやらなければなりませんでした」―セルジオ・イスラ

こうした内面的な働きによって、彼らは「今ここにないもの」「欠けているもの」「足りない部分」に意識が向かいがちになります。完璧を求める気持ちは決して満たされることがなく、自己批判を繰り返し、常に「もっと向上しなければ」と感じてしまいます。彼らの中には、無意識のうちに「すべてが完璧になれば休息できる」という非現実的な考えがあり、完璧を求め続けます。しかし、現実にはやるべきことが次々と出てきて、無限に自分のことを後回しにし、楽しむことを永遠に先延ばしにしてしまうのです。

全てのSP1が罪悪感を強く感じているわけではない点には注意してください。これは、罪悪感を感じる前、または後で感じないようにするために、まずは罪悪感に浸って時間を浪費するよりも先に、責任を持って実際に行動することを重視していて、そちらに意識を向けるためです。

「私は罪悪感をあまり感じません。それは、罪悪感に浸る隙も無いほど、自分を徹底的に追い詰めてしまうからです。そもそも罪悪感と言うのは、全部終わってから『私はひどいことをした』と振り返っている状態のことをさすと私は思っていますが、私は自分が納得できるまで、自分にできることが何かあるのではないか、自分が果たすべきことがあるのではないかと、自分を責め続けます」―セルジオ・イスラ

大人になると、罪悪感をより強く感じることがあります。特に、家庭内でルールが厳しく、緊張感の中でそれを守らされていたり、怒鳴り声とともに押しつけられたりした場合、その罪悪感は、ただ苦しみを生むだけの「歪んだ罪悪感」に変わりやすくなります。罪悪感は、「どれほど頻繁に、どれほど強く自分を責めるか」と深く関係しています。繰り返し罪悪感を抱くことで、不安や痛み、焦燥感、後悔といった感情が引き起こされます。SP1にとって、罪悪感と怒りは非常に強烈なものとして感じられるため、長く抱え続けるのは苦痛です。そのため、彼らはできるだけ早く罪悪感や怒りの負担を軽くし、解消しようと行動します。また、こうした感情がもたらす不快感を和らげるために、急いで対処しようとする傾向があります。

コントロール

SP1は、不完全さや罪悪感から逃れようと、無意識的にコントロール、努力、そして硬直性という反応を示します。彼らにとって、自己完璧化という非現実的な考えは、強い自己コントロールと結びついています。不完全であるという感覚から生じる自己不信が、彼らを厳しくコントロールさせるのです。内面には「裁判官」のような存在があり、自分自身(つまり被告)を監視し、コントロールし、完璧にしようとします

「私にとって、コントロールを手放すことは、自己批判せずに自分自身でいることです。自己完璧化という狂気じみた考えは自己コントロールと結びついています。私は自分を信頼していないからこそ、自分をコントロールするのです。私にとってコントロールとは、何よりも自己コントロールであり、それを失うことへの恐怖でもあります。コントロールは私を飲み込む怪物のような存在です。人生は思い通りにならないものであり、私はそれを完全にコントロールすることはできません。しかし、もしそれをコントロールできなければ、私はこの世界の確実性に対する恐怖に支配されてしまいます。そしてその恐怖は、母の感情が不安定だったことへの恐怖と結びついています」―メルセ・ファルコ

SP1にとって「完璧さ」を追い求めることは、強い執着のひとつです。ただし、「完璧」という言葉の意味は人によって異なっており、何をもって完璧とするかは、その人の特性によって変わります。SP1が「物事は完璧でなければならない」と考えるとき、「完璧とは何か?」と問い直すことが重要です。SP1にとって完璧とは、すべてを徹底的に見直し、あらゆる角度から分析することです。つまり、SP1にとって「完璧である」とは、すべてをコントロール下に置くことを意味します。このコントロールへの執着は、幼少期の感情的な傷を守るために、無意識のうちに形成された防衛メカニズムでもあります。彼らは「誰かに自分の行動が間違っていると言われたり、もっと良くするよう求められたりすること」を回避するために、自己コントロールを強めてきました。こうして、強いコントロール欲求が生まれたのです。

「私にとっての『完璧』とは、まず何よりもすべてをコントロールできている状態であり、すべてが、私が『正しい』と思う方法で進むことです。この考え方は、私の硬直性とも深く結びついています。物事は変わらないものだと思っているため、他人がどんな意見を言ったとしても、私はそれに影響されません。この考え方が、他の選択肢を探すことを避ける硬直性につながるのです。すべてをコントロールし、予測できない事態を回避することで、私は次第に柔軟性を失い、硬直していきます」―ブランカ・マルティネス

このサブタイプにとって、完璧さとはコントロールそのものであるため、まず最初に現れるのは、自分の行動に対する過剰なコントロールです。さらに、そのコントロールは他者や外の世界にまで及ぶことが多く、特に自己要求が厳しい場合、その負担を軽減する手段として使われます。外部に対するコントロールは、仕事において特に顕著であり、その目的は成果を最大限に高めることです。

「怒りを表に出すことは、私にとって自分をコントロールできなかった証であり、失敗だと感じます。だからこそ、恥や罪悪感、悲しみが生まれるのです。それでも、自己コントロールは常に続いています」―キケ・セグイ

「私はすべてをコントロールします。そして今でも、自分に自由を許していません。私はもう大人で、父親も保護者もいません。誰も私に『こうしなさい』と指図することはありません。それでもなお、私の中には“裁判官”がいます。その裁判官は、私が何かをするたびに、『これは正しい、これは間違っている』と判断を下します。それは、作業の手を止めるときも、信号待ちをしているときも、スーパーのレジの列に並んでいるときも、常に私の中で声を上げ続けています」―セルジオ・イスラ

SP1は他者に対して柔軟で、親切で、思いやりのある態度をとります。これは、SP1が最も恐れるもの、すなわち“暴力”を避けるためです。彼らは暴力に対して極度に敏感であり、穏やかな環境を保とうとします。

相手との関係が修復されたと感じられない限り、心の奥深くに潜む怒りは、静かに煮えたぎり続けます。SP1の怒りは、地中深くにマグマを抱えた火山のようなものです。一見すると鎮まっているように見えますが、実は内部で熱をため込み、ときおり煙や灰を噴き出します。彼らは怒りをあからさまにぶつけることはせず、黙って心の内で憤ります。感情を爆発させたり、怒りの言葉を口にしたりすることも避けようとします

彼らは、自分の正義を直接的かつ激しく貫くのではなく、沈黙しながら内心で憤り続けます。本来なら怒るべき場面でも、それを避け、怒りを飲み込みながら、怒りの言葉すらも口にしません。「感情は取るに足らないものだ」と考えているのです。

明らかに、彼らは怒りだけでなく、ほとんどの感情を抑え込んでいます。感情というものに対して居心地の悪さを感じており、それが未知のものであるため、恐れを抱いています。子供の頃の彼らは、感情を自由に表現できる自発的な子どもではなく、駄々をこねることも、感情を表に出すこともありませんでした。彼らは感情に関して抑圧的な育てられ方をして、感情を感じることや表現することが制限されていたのです。

彼らは、子どもの頃から感情を認めてもらえず、気持ちを大切にされることもありませんでした。代わりに、彼らに求められ、評価されたのは「自己統制」と「厳格さ」でした。したがって、感情は強ければ強いほど扱いにくく、関わること自体が不安を引き起こすのです。

「子どもの頃、私は感情的になっているときには誰にも注目されていないと感じていました。しかし、自己統制しているときだけは注目されたのです。たとえば、叔母の家に行ったとき、私は大人しく振る舞っていました。すると、『見てごらん、あなたはきちんとしているね』と声をかけられることがありました。こうして私は、感情を抑え落ち着いていることが評価されると学び、それ以外の感情表現については何も学びませんでした。そして、感情の世界に満足を見出すなんて考えたこともありませんでした。無知ゆえに、それが怖かったのです。私にとって感情の世界は未知の領域であり、知らないものはコントロールできません。他者の感情の世界も、私には不安をもたらします。それは私がそコントロールできないものだからです」―キケ・セグイ

「家では感情を目にすることはありませんでした。良い意味でも悪い意味でも、です。私の家は、全てが理性的で、非常にコントロールされた環境であり、感情は表に出ることがなかったのです」―セルジオ・イスラ

その結果、SP1にとって「すべてをコントロールすること」が安心と平穏をもたらすようになりました。すべてが自分の管理下にあると感じるとき、ようやく心が休まります。さらに、無意識のうちに、コントロールすることで自分が優位に立っていると感じることもあります。自分が状況を支配していると信じること、そして物事が自分の意志で動いていると感じたいのです。しかし、その代償として、彼らは過剰に物事を管理しようとし、それを維持するために膨大なエネルギーを使うことになります。その目的は、「誰にも自分が間違っていると言わせない」という神経症的な安心感を得ることにあります

「私はよく『平穏でいる』と言いますが、それは、すべてをコントロールできていると感じるときだけです。リラックスしているわけではなく、ただ状況を完全に管理できているから平穏でいられるのです。それが私の基本的なあり方です。しかし、それを維持するのは簡単ではありません。強い意志と労力が必要です。私たちは社会的な存在ですが、私はどこか孤立しているように感じます。幸福の背後にあるもの、あるいは最も手に入りやすいものは、平穏や静けさです。私はそれを、安全で管理された環境の中で手に入れました。自分の周りに何があるのかを把握し、どこから猛牛が突進してくるかを予測できるとき、私は安心できます。しかし、それはすべてをコントロールできているからこそ成り立つ平穏です。言ってみれば、私は平穏を得るために、常に戦い続けているのです」―セルジオ・イスラ

「私は感情を表に出すことを恐れていただけでなく、過度に感情的な人にも警戒心を抱いていました。彼らの感情はどこか“演技”のように見えたためです。私が育った環境では、感情はあまり価値のあるものとして扱われていませんでした。したがって、私も自然と感情の価値を軽視するようになりました。家庭で認められないものは、結局、どこでも価値を持たなくなるのです。たとえば、私が誰かと口論しているとき、もし突然相手が泣き出したら、私はこう言います。『少し大人になりなさい』」―セルジオ・イスラ

権威との関係

タイプ1は、具体的な人物の権威よりも、抽象的な規範やそれに伴う価値観、善悪についての信念に強い関心と情熱を抱いています。この関心が、対人関係においては、他者を支配したり操作したりする手段となります。なぜなら、タイプ1はこれらの規範を他者に強制し、「自分が正しい」と確信しているからです。そのため、他者を自分より下に見て、指導的な立場に立とうとします。彼らはアドバイスを与えることが好きで、自分は何が他者にとって最善かを知っていると思い込んでいることもあります。

タイプ1の根底には「正義への強い欲求」と「欠点を見抜く鋭い視点」があるため、権威に対して無条件で信頼することはありません。彼らは権威に対して懐疑的な態度を取ることもありますが、逆に、その権威が倫理的な原則や正義に基づいて行動していると確信すれば、それを理想化し、全面的に受け入れ、熱心に従います。タイプ1は、現実世界を階層的に捉える傾向があり、抽象的な意味で権威を尊重します。しかし、内心では権威に対する不信感を抱いており、誰もが認める絶対的な権威を持つ人物にのみ服従します。また、タイプ1は欠点を観察する特技を持ち、権威者には単なる「知識」だけでなく、「攻撃性なしに威厳を持って指導できる能力」が必要だと考えています。

彼らは、すべてをコントロールしたいという欲求と、自己優越感(自分は他者よりも準備ができているという感覚)に基づく自己愛を持っています。このため、自信があるときには、自然と支配的な態度を取るようになります。彼らの「権力への意志」は、一見すると礼儀正しいものですが、実際には一貫して強いものです。SP1は自らをリーダーの立場に置こうとし、意思決定の際には、自分の役割を他者と交代したり、他者の意見を広く聞く機会を与えることを忘れがちになります。その結果、他者との対話や意見交換が不足することがあります。ただし、彼らの支配の仕方は、露骨な攻撃性を伴うものではありません。彼らは状況を敏感に察知し、巧みに立ち回ることで批判を避けるようにします。そのため、相手に気づかれないように影響力を行使し、必要に応じて支配の度合いを調整します。

彼らは、明確な上下関係がある環境に安心感を覚えます。秩序を重視し、階層構造を尊重し、管理職に就く際には細心の注意を払います。権威には従順な態度を示しますが、実際には「自分が他者を従えたい」という深い欲求を隠しています。要するに、彼らは自分が支配的な立場を確立できる関係を求め、また自分の「善良で尊敬に値する自己像」が脅かされない環境を望みます。彼らは、策略を用いて人間関係の中で優位に立とうとし、「自分は徳があり、倫理的・道徳的に優れているからこそ、権力を持つのは当然だ」という理屈で、その支配を正当化します。さらに、彼らは権力や金銭に関心を持っていますが、そのことを自分では認めたがりません。また、怒りを認識しにくいのと同じく、自分が他者を支配しようとしていることにも気づきにくい傾向があります。そのため、彼らの支配的な態度は表立って現れず、一連の間接的な方法を通じて行使されます。

「私が権威を承認することはほとんどありません。自分が扱っている事柄に関して、その人が本当に権威と呼ぶに相応しい存在であることを証明してもらわない限り、納得できません。もしそれを証明してくれるなら、私はどこまでもついていきます。『分かりました、あなたが私を導くのですね。しかしながら、あなたが私よりもそのことについて詳しいことを証明しなければなりません。もし証明できるのであれば、何の問題もありません』。私には権威が正当であるかどうかを確かめる必要があります。もしその人が私よりも優れていなければ、私を導くことはできません。さらに、知識があるだけでは不十分で、指導力も求められます。もしその人が指導する方法を知らなければ、その人は指導者として適切ではありません」―キケ・セグイ

私がすることは、その人がその地位に相応しいか否かを判断することです。その地位に立つ者であるならば、当然考えるべきこと、なされるべきことを実行していない場合、私はその人がその地位に相応しくないと判断します。不公平だったり、不道徳だったり、規則を破っていたりする場合、私は容赦なく判断を下すでしょう」―ブランカ・マルティネス

「体制(または権威的組織)には、私が求める条件がすべて満たされている必要があります。少なくとも、私はすべての欠点を徹底的に洗い出し、非常に批判的な目で評価します。なぜなら、現状は期待される水準に達していないからです。しかし、もしかしたら私がそう感じてしまう理由は『私こそがその水準に達している』と考えているからかもしれません」―ロラ・レボレド

彼らは、親や権威的な人物に対して、普段は従順で表面的には敬意を示します。しかし、その態度には、自分が認められたいという思惑があり、権力から得られる利益を目指しています。通常、SP1は迎合的な態度をとりがちで、そのために、権威者の前では「美徳の仮面」を保っていることが多いです。しかし、意見が対立した場合には、敵対的な立場を取ることがあります。ただし直接的な対立ではなく、受動的な抵抗や消極的な反発という形で反抗します。

法や社会規範の尊重

SP1は、自分の欲求や願望を素直に認めることが苦手です。それは、自己批判が強いためであったり、「自分にはそれを求める資格がない」「自分にはそれを手にする価値がない」といった歪んだ自己認識から来ているのかもしれません。そのため、「私はこうしたい」と感じる代わりに、「私はそうすべきだ」「それが義務だ」「それが正しい」「それが公平だ」といった、社会的・道徳的な観点からの表現に置き換えてしまいがちです。このようにして、自分の欲求を直接表現することを避け、それを社会の法律やルールの尊重、道徳的規範や抽象的原則(具体的な行動指針に基づかない理念的な基準)への忠実さにすり替えるのです。

たとえ規範に賛成できなくても、私はそれを受け入れます。また、それがすべての人に平等に適用されるべきだと考えます。たとえ自分の意見と合わなくても、規範があるからこそ社会が成り立つのだと強く信じています」―キケ・セグイ

彼らは「何が正しいか」に固執し、強い正義感を持つ人物です。SP1は、法律や社会規範を守ることで自分を守ろうとし、この手段で「自分は正しくありたい」という欲求を補償します。この欲求は、幼少期に経験した「不正への傷」に由来するものであり、その結果として彼らの中には「自分が正しくなければならない」という強い意識が育まれます。その結果、彼らは「私は真実を知っている」と確信し、それが彼らに安心感をもたらします。しかし、同時にその確信は他者に対して優越感を与える要因にもなります。「自分が真実を持っている」という感覚は、無意識的な防衛反応の一つで、行動するための安心感を与えるとともに、「自分は正しいか、間違っているか」という絶え間ない自己評価に対する補償の役割も果たします。

このようにして、彼は「間違うことへの恐れ」と「自分は真実を知っている」という確信との間でバランスを取ります。また、自分の考えが明確であることを示し、失敗したという印象を与えないようにすることも、彼らにとって重要な防衛手段となります。これは、強さと安心感を保つための戦略でもあります。

「私が普段見せる『決意に満ちていて抑えが効かないイメージ』(強い意志を持ちつつもどこか予測不可能な印象を受けるようなイメージ)に関係していると思います。そのため、私は自分の考えが真実であるかのように話します。まるで、すべてを即断即決し、疑問を持つことなく行動しているかのように見えているかもしれません。しかし実際には、私が決断を下すことができず、迷う瞬間があります。それは、『自分が正しい決断をしているのか』という不安であり、一切の誤りを犯すことのない完璧さを求める気持ちに関係しています。しかし私が周囲に見せているのは、最初からすべてを明確に把握していたかのような印象です。これは、私が物事をどう表現し、どう語るかに関係しています。よく『あなたは自信をもって話すね』と言われます。まさにその通りです。そして、私がそう言うとき、それは私がその内容を本当に信じているからです。その強い確信こそが、私の言葉や態度に表れています。『私は真実の中にいる』という表現に、それが込められています」―ブランカ・マルティネス

「真実が私を動かします。自分が真実を把握しているという確信こそが、私に行動をする力を与えるのです。この確信がなければ、私は決断を下せません」―キケ・セグイ

責任と厳格さ

タイプ1は保守的な気質を持ち、「父親的な支配」を通じて周囲にも純粋さを求める傾向があります。彼らは自分自身に課しているのと同じレベルの自制心や自己規律を、他者にも求めます。また、弱い立場にある人や困難な状況にある人々を支援し、守ろうとしますが、同時に感情的には距離を保つことが多いです。

幼い頃、彼らは本来の年齢に見合わない責任を背負わされていました。それは誰かに与えられた役割かもしれませんし、自ら進んで引き受けたものかもしれません。子供の頃の彼らは、家庭のルールや決められたスケジュールをきちんと守り、母親の家事を手伝ったり、年下の兄弟の世話をしたりしていました。こうして親のルールや禁止事項を内面化し、成長するにつれて社会のルールも同じように受け入れ、やがて内面化したルールや禁止事項を、自分の超自我と同一視するようになります。その結果、自分の欲求を抑えたり諦めたりすることが当たり前になっていきました。この内面化された規範を監視する存在として、彼らの心の中には「自己を責める厳格な裁判官」が生まれます。彼らが自らのルールを破るたびに、この裁判官が彼らを責め、強い罪悪感を抱かせます。その結果、彼らは自分の本当の欲求を感じることも、それに向き合うこともできなくなってしまいます

彼らは幼い頃、「迷惑をかけず、周囲を助け、責任感を持ち、自立していれば愛される」と学びました。しかし、その結果、過剰な責任感に苦しみ、「良い子」であり続けるための仮面をかぶり、大人の期待に応えようとする自己抑制的な態度を自らに強いるようになります。そして、その責任感の重さは、彼らに深い孤独感と疎外感をもたらすことになります。

私は母を手伝っていました。母は働いていて、私は兄弟たちの世話をしなければなりませんでした。やるべきことがあり、自由に遊ぶ時間はほとんどありませんでした。午後や土曜日になると、学校の友達は遊びに出かけましたが、私は母を手伝ったり、兄弟たちの世話をしたりしていました」―メルセ・ファルコ

「コーチングの訓練を受ける中で、私は自分の中に二つの側面があることに気づきました。それは『フラストレーションを抱えた自分』と、『キリストのように自己犠牲を厭わない自分』です。私は幼い頃から真面目な性格でした。日々の生活の中で、次第に、両親は私や弟の世話をする力に欠けていて、家庭の経済を管理することもできないことを、そしてたとえ私たちのためであっても、安定した夫婦関係を維持することもできないのだと痛感するようになりました。次第に私は、頼りない両親が本来果たすべきであったことも含めて、すべてを自分で背負うようになりました。ひたすら働き、家では極端に倹約し、パーティーや旅行を控えました。しかし、それでも何をどうすればよいのかわからず、愛する人たちのことを心配するたびに、これはすべて、自分が無責任なせいだと感じるようになっていきました。年月が経っても状況は変わらず、むしろ悪化していきました。それはとても深刻でした。私にとって人生は、絶え間ない苦しみと喪失の連続であり、少しずつ崩れ落ちていくように感じられました。私は何もできないまま、家族が避けられない終焉へと向かっていくのを、ただ見守るしかありませんでした」―クリスティアン・モレノ

幼い頃から責任を負うことに慣れていると、大人になってからも、つい過保護になったり、自分が本来負うべきでない責任まで引き受けてしまうことがあります。相手がそれ以上の責任を負いたくない、あるいは負えない場合、気づけば自分に関係のない問題まで抱え込むことになり、相手の代わりに彼らが対処してしまうこともあります。

「今は状況を冷静に見極め、必要に応じて距離を取ることができるようになりました。しかし、以前はそうではありませんでした。物事は片付けなければならないし、解決しなければならないことがある場合、それを何とかするは私の役割だと思っていました。時には、せっかちで動きが速すぎるせいで、頼まれてもいないのに他人のために何かをしてしまうことがありました。それなのに、相手が感謝すらしないとイライラしてしまうのです。今では、頼まれれば手を貸しますが、頼まれもしないのに動くことはしません…以前のようには」―ブランカ・マルティネス

私は、身近な人たちをつい幼児扱いしてしまいます。頼まれてもいないのに手を貸し、その結果、彼らが自分で問題を解決する機会を奪ってしまうのです。そうして次もまた、彼らは私を頼ってくるのです」―キケ・セグイ

SP1の性格には、強い責任感とともに真剣さが表れています。彼らは子供の頃、周囲に楽しい環境がほとんどなく、その代わりに、常に責任を果たすことを求められ続けました。その結果、自然と真剣な人間になり、その影響は声のトーンや表情、動作にも表れています。

道徳主義者、清教徒的傾向

SP1はすべての物事に対して過度な関心を持ち、絶対的な道徳原則に反することを恐れます。これにより、慎み深さや道徳心が強く働き、自己や他者の行動を『堕落』や『品のなさ』とみなして避ける傾向が強くなります。ここで言う『堕落』や『品のなさ』とは、道徳的な崩壊や品位を欠いたもの、つまり規律が守られない状態を指します。攻撃的な行動や反抗的な態度、性的な本能を表に出すこと、快楽に屈すること、そして自己中心的に見える行動、これらはすべて強いタブーとなります。そして、家庭内で禁じられていたことと同じように、自分にとっても絶対的に避けるべきこととなります。つまり、家庭環境で育まれた倫理観が個人の道徳感覚に深く根付いています。こうした傾向に対抗するため、内面的な道徳的完璧主義(自分に対して非常に高い道徳基準を求める)、道徳主義(厳格な道徳規範を守る姿勢)、清教徒的な態度(快楽を抑えて規律を重んじる姿勢)、意図的な善行、反快楽主義といった性質が強く形成されていきます。

高潔さ

本能を抑圧し、そのエネルギーの自由な流れを制限することで、最終的には、教養があり、善意に満ち、高潔に見える人物が作られます。この過程で、反動形成という心理的メカニズムが働きます。これは、受け入れがたい衝動を抑えるために正反対の行動を取るものです。このメカニズムは、衝動を意識から排除し、無意識の中で怒りなどの感情を維持する作用もあります。より良い自分になろうとする努力は、自分に対するフラストレーションを引き起こし、その結果、怒りを内面に抱え続けることになります。一方で、意図的な善行や優しさ、個人的な利他主義を支える善意は、怒っていることや邪悪だと感じること、あるいは利己的だと感じることを意識的に隠してしまいます。その結果、「自分は高潔で善意に満ちた人物だ」という誤った自己像が作られてしまいます。高潔さとは、「自分の行動が善である」と信じ、それが言動として一貫しているように見える状態です。

役に立つことで愛を得ようとする心理

SP1の性格には、周囲に尽くし、役に立とうとする態度が顕著に現れます。クラウディオ・ナランホはこれを「過剰な服従の態度」と定義しています(この「服従」には、単なる従順ではなく、時には過度な自己犠牲を含むこともあります)。彼らは「自分には愛される価値がない」と感じやすく、そのために従順で、時には卑屈とも言えるような態度を取りながら、周囲に認められることを目指します。幼少期の彼らは、一般的に「良い子」として過ごしました。反抗することはほとんどなく、親や周囲の期待に応えようと努めていました。その背景には、大きく二つの要因があります。一つは、親が非常に厳格で、逆らうことに強い恐怖を感じていた場合です。そしてもう一つは、親の一方が服従的で、その姿を見て「従うことが正しい」と学んだ場合です。

母が言うことをすべてやれば、母は私を愛してくれると思っていました。しかし、それは決して起こりませんでした。できることはすべてやったはずなのに、母の愛や承認を得ることはできませんでした」―メルセ・ファルコ

役に立つことは、相手の関心や愛情を引きつける方法です」―ブランカ・マルティネス

厳しい家庭環境では、子どもは「良い子でいること」で親の承認を得ようとしますが、親の期待はいつも高く、どれだけ頑張っても完全に満たすことはできません。そのため、常に挫折感を抱えながらも、「もっと役に立てば、認めてもらえるかもしれない」と努力し続けます。「私はルールを守って、ちゃんとやったんです。言われた通りにしたんです。『今度は愛してくれるよね?』」。このように、他者や集団に尽くすことは、SP1の根深い心理的プログラムの一部となります。彼らは意図的に親切に振る舞い、他者の評価や尊敬を得ることで「愛されている」と感じようとします。しかし、この「良い人でいなければならない」という思いは、次第に自分を縛る窮屈な仮面へと変わります。やがて、彼らは「役に立つこと」そのものが目的となり、それが無意識のうちに愛を求める手段へと変わります。愛されたい、大切にされたい、必要とされたいという思いから、彼らは自ら進んで「良い人」であろうとし続けます。しかし、それは時に自分を苦しめる鎖にもなり得るのです。

彼らは、人や特定の大義を理想化する傾向があります。そのため、他者や大義に対して倫理的または道徳的な偉大さを帰属させ、その他者や大義に対する奉仕の立場を取ろうとします。幼少期、彼らは片方の親との関係を理想化していたか、あるいは親が不在であった(または不在と言えるほど感情的関わりが不足していた)ため、その存在を理想的に思い描いていた可能性があります。また、自分には特別な強さや美徳があると信じ、それを証明しようとしていたことも考えられます。

「良い子でいること」に強くこだわり、周囲に役立つことで承認を得ようとします。従順で迎合的に振る舞うことで、彼は安心を得ようとします。表面的には素直に従いながらも、内心では反発を抱えています。献身的に振る舞う一方で、抑え込んできた他者への批判や、自分自身への厳しい評価が積み重なり、内面には怒りが蓄積していきます。

「私は手先が器用で、大工仕事でも何でもできます。だから、人に頼まれるとよく手伝っていました。しかし、手伝うことと、頼られすぎてしまうことは別物だと思います。最終的に、私はこう言ったんです――『それはあなた自身がやるべきことではないですか?少なくとも一度あなた自身が試してみたらいいのではないでしょうか』と。しかし、『ノー』と言うことを学ぶのは、まるで命がけのように大変でした。結局、私が身につけた基準は、『これは自分が本当にやりたいことなのか?』と自分に問いかけることでした。しかし、一番難しかったのは、自分が何を望んでいるのかを知ることでした」―キケ・セグイ

「『相手に認められたい』。これは、母から得られなかった承認を埋めようとする、私の心の中の課題です。だからこそ私は『役に立つ子』になれば、相手は私を受け入れてくれるはずだと思うのです。『何が欲しいのですか?私が持ってきてあげますよ』と。私にとって、『愛する』とは『相手を世話すること』を意味します。それこそが最も大切なことなのです。そして私は、『あなたのために何かをする私を愛してほしい』と願いながら、その気持ちをどんどん強めてしまいます。しかし、それが相手を惹きつける手段になっているとしたら?私は、役に立つことで相手を引き寄せようとしているのです。しかし本当は、自分の道を進むのが好きですし、相手にもそれぞれの道を歩んでほしいと思っています。私は、この戦略を自分のものとして受け入れています」―メルセ・ファルコ

多くのSP1は、「愛する」とは従うこと、相手の世話をすること、あるいは相手に尽くすことだというメッセージを、直接的にも間接的にも受け取ってきた。だからこそ、承認を求めるあまり、自分の判断や意思よりも、他者に評価されることを優先してしまいます。しかし、心の奥では、「本当にこれでいいのか?」と自問する声があり、内なる批判者によって自分自身が常に評価され続けることになります。そして、この生き方は一種の「自我の罠」となります。なぜなら、彼らは他者の愛や尊敬を得るために、正しくあろうと努力し続け、気づかぬうちに自分を縛ってしまうからです。

責任を背負う者

責任を引き受けることは、彼らの幼少期に始まり、その後の人生を通じて続いていきます。SP1の性格は、責任と義務を中心に形成されており、「やるべきことをやる」という感覚が根底にあります。そして、それが習慣化することで、無意識に本来自分に関係のない義務を引き受けたり、誰からも求められていない責任を自分から作り出したりするようになります。「責任感の強い子どもでいること」は、幼少期に家族から与えられた役割です。しかしその結果、彼らは自由に遊ぶ時間や、自分らしく過ごす時間を失ってしまいます。これによって「自分が何を望んでいるのか」「何が必要なのか」といった問いが、彼らの思考から消え去ってしまうのです。

「目が覚めた瞬間、まず最初に私の頭の中に浮かぶのは『今日は何をしなければならないか?』という問いです。そして、次々とやるべきことのリストが思い浮かびます。自分が義務感に突き動かされて生きていることに気づき、驚きました。私の行動の原動力は、仕事や責任、義務といったもので、私が世界をどう見るか、行動を起こす動機、それらすべてが『義務』だということに気づいたのです」―メルセ・ファルコ

「義務は絶対です。私は義務によって動かされているのです。この忠誠心の本質は、やるべきことを果たすという責任にあります。『やらなければならないことは、やるべきだ』という考えが私たちの役割であり、それを今すぐに完璧に成し遂げなければならないという責任感が、常に私を突き動かしています」―ブランカ・マルティネス

「私は、自分で課した多くの義務の下で、本来の自分を見失っていることに気づきました。自分とのつながりを失うと、義務を果たし続けることが習慣となり、『次はあれをしなければ、その次はあれをして、その後はあれを…』と動き続けてしまいます。まるで、自分の価値を証明するために自分が必要とされることを無意識に求める機械のようになってしまうのです。そして、その状態にいると、私は自分が本当に必要としているものを完全に見失ってしまいます」―メルセ・ファルコ

勤勉さに駆り立てられる者

彼らは膨大な努力とエネルギーを注ぎ込み、常に現在の自分を超えようと尽力します。そのため、自らに課した厳格な基準に強迫的に従い、それに合わせて自分を絶え間なく改良し続けます。

「私は褒め言葉をうまく受け取れませんし、他人を褒めるのも苦手です。物事は報酬を期待せず、ただ『やるべきこと』だからやるべきだと思っています。それが正しい姿勢だと思います。求められる基準は高く、完璧でなければならなりません。それがすべてです」―ブランカ・マルティネス

どんなに努力しても、決して『十分だ』と思えません。常にもっと良くできると思ってしまうのです。それはまるで、流れ続ける川のようで、どこかで区切りをつけて『これで終わり』と言わなければなりません。締め切りが迫っているのに、まだ改善できると思って、細部にこだわり続けます。記事を修正し、句読点を直し、類義語を探して、できる限り完璧を目指してやり続けてしまいます。しかし、それは神経質で強迫的な行動につながります。すでに十分出来ているのに、さらに良くできると思ってしまうのです。そして、その改善の連鎖に陥り、終わりが見えません。もしその連鎖を止めなければ、締め切り直前まで手を加え続けてしまいます。それは、単に満足できないからではなく、常に『もっと良くできる』と思っているからです」―ロラ・レボレド

不満

現実と自分との間に感じる対立や葛藤、また自分自身を受け入れないことが、不満の感情を募らせ、時間とともに蓄積された憤りを引き起こします。その結果、彼らは常に満たされない思いを抱き、真剣で、時には陰鬱な印象を与えることもあります。

「私はありのままの自分を受け入れる必要があります。もし過度な要求や自己憐憫を手放し、自己批判をやめれば、私は完璧に至れるでしょう。他者も世界も完璧で、私はそこで安心して休むことができるでしょう」―メルセ・ファルコ

SP1は、期待が裏切られることでフラストレーションを感じやすい傾向にあります。これは、彼らが自分に対して非常に高い要求を持つことが原因です。SP1は柔軟性に欠け、理想と現実のギャップを埋められないため、絶えず不満を抱きます。

彼らは「現実に合わせる」のではなく、「現実が自分の理想に合わせるべきだ」と考えがちです。そのため、現実が課す制限を受け入れるのが難しく、その結果としてさらにフラストレーションに苛まれます。このフラストレーションは、幼少期に経験した厳格なしつけや、頻繁に「ノー」と言われたことから来るものでもあります。

「私は怒りを感じます。なぜなら、今の人生が私に課す制約や、他者の行動を受け入れることができないからです。私は正しく振る舞ってきたのだから、制限されるはずがない——子供の頃からそうだったように。それなのに、思うようにならない現実に直面すると、怒りと苛立ちが膨らんでいくのです」―メルセ・ファルコ

彼らは自分のことをとても柔軟な人間だと思っていますが、実際にはそうではありません。なぜなら、彼らは現実をありのままに受け入れるのが苦手だからです。そのため、自分の理想に現実を合わせようとしますし、それがうまくいかなくても、何とかして状況を変えようとします。SP1は、自分の期待どおりに物事が進まないと、強い怒りを感じます。しかし、彼ら自身はその怒りを自覚していません。というのも、怒りが常に彼らの感情の根底にあり続けているため、それが当たり前になってしまっているからです。

彼らの内には深い怒りが根付いています。「自分には何も与えられないのか」という感覚が、過去に何度も拒まれてきた経験と結びつくのです。単に挫折への耐性が低いのではなく、幼少期から何年にもわたり同じような挫折を繰り返し経験してきたため、再び同じ状況に直面すると、強い恨みが湧き上がるのです。さらに、このフラストレーションはタイプ1特有の強迫的な傾向とも関連しています。彼らは「正しくできるはずだ」と証明しようと、何度も挑戦し、失敗し、それでもまた挑戦し続けます。その繰り返しが、彼らをますます執着へと駆り立てていくのです。

フラストレーションと怨嗟

SP1の場合、フラストレーションを感じるとそのエネルギーが自己批判という形で自分自身に向けられます。これによって、「欲求→コントロール→フラストレーション→無力感→心配」という一連の心理的なサイクルが回り始め、終わりのないループに陥ります。このサイクルから抜け出すために必要なのは、自分に余裕を持ち、失敗を受け入れることです。幼少期に間違いを許されなかった経験が影響しており、フラストレーションに直面すると、その感情に囚われてしまうのです。

SP1がフラストレーションをうまく乗り越えるためには、コントロールを手放し、謙虚さを受け入れることが必要です。また、このプロセスを通じて、すべての欲求が満たされるわけではなく、期待どおりにいかないこともあると理解することが大切です。人生の限界や制約は、私たちに重要な学びを与えるものです。これによって、フラストレーションは単なる障害ではなく、視点を変え、成長するための機会と捉えることができるようになります。

怨嗟は、SP1に特徴的な心理的メカニズムです。特に、SP1の場合、怒りを抑え込むことが多いため、過去の痛みが表現されずに蓄積されることになります。一般的に怒りは現在の状況に対する反応として現れますが、SP1の場合、怒りは過去の未解決な怒りが蓄積されたものとして、現在も心の中でくすぶり続けています

「14歳のとき、両親は私を働かせました。私はとても優秀な学生だったのにも関わらずです。私はそのことに憤りを感じているのです。なぜなら、私は自分にこう問うからです。『なぜ勉強を続けさせてもらえなかったのか?』」―キケ・セギ

「怒りを感じるとき、私は自分にこう言い聞かせます。『大したことじゃない、落ち着くべきだ』と。そして、自分を納得させます。しかし、それは理性的な部分だけです。感情の部分は、受けた不正義と怒りから抜け出せずにいるのです」―メルセ・ファルコ

一般的に、憤りは、持続的な不公平感に起因します幼少期に過剰な責任を負わされ、自分の能力を超えた努力を強いられたにもかかわらず、それが認められなかった経験から生じるのです。彼らは自己犠牲を強いられ、「子どもらしさ」を抑圧し、その結果として、遊びや楽しみをほとんど感じられなくなりました。行動面での過剰なコントロールが、彼らの自発性を抑制しているのです。また、彼らはセルフコントロールを失うことを恐れています。それは、彼らの親の一人がセルフコントロールを失っている様子を、彼らが過去に目撃したためです。

憤りとは、忘れることも、表現することもできない持続的な怒りのことです。怒りに執着し続け、過去の出来事に対して不公平感を抱き、「本来なら違ったはずだ」という信念と、「今となってはどうすることもできない」という無力感にとらわれる状態です。このようにして、彼らは心の中で怒りを相手に向け続けます。その多くは、子ども時代に尊重されなかったり、話を聞いてもらえなかったり、価値を認めてもらえなかったといった、ニーズが満たされなかった経験に由来しています。

「憤りは、人生において自分の思いを率直に表現してこなかったことから来ています。今起こっていることではなく、幼少期の『不公平さ』という傷を再体験しているのです。感情を抑える手段がなく、怒りは無限に広がります。ですが、よく考えてみると、憤りというものは無意味です。誰もが自分の知っている範囲でできることをしているだけだと私は理解しています。それなのに、なぜ私はこの感情に囚われているのでしょうか。今、もし誰かが私に悪辣な口調で話しかければ、私はそれと同じ攻撃的な本能で応じてしまうでしょう。机を叩くかもしれませんし、叫ばなければならないと感じれば、実際にそうするかもしれません」―メルセ・ファルコ

私はずっと、傷ついていないふりをしてきました。なぜなら、あまりにも多くの痛みを感じ、また、それを表に出すたびに、他人から非難され、見下されるような気がしたからです。感情を解放したら、壊れてしまうのではないかと恐れました。ですが、私は『良い人』だから、私を傷つけた人々に復讐はしません。けれども、癒されない傷が積み重なり、本当の自分を抑え込んできた結果、私は憤りを抱えながら世界を見つめるようになったのです。復讐心を抱き、誰にも負けない存在になって、力と権威を手に入れて、『私は耐え抜き、成功した』と証明したかったのです」―クリスティアン・モレノ

彼らは直接的な対立を避けますが、批判や非難を通じて他人との間に冷たい距離を作り出します。これにより一時的に怒りが和らぐものの、抑え込まれた憤りは心の中に残り続け、まるで彼らが前進するのを阻む重荷のように彼らを縛ります。

「親から『勉強しなさい』と言われ続けてきたのに、結局は勉強を諦めさせられ、家業を手伝うことになりました。そのとき、ふと『私の兄弟たちは好きなだけ勉強できたのに』と思ったのです。しかし、その思いは長くは続きませんでした。なぜなら、『勉強する道もあったかもしれない。しかし、それは現実にはならなかった』と気づいたからです。それなら、この事実をどう受け止めるかが大事だと思いました。『過去は変えられない。それでは今、私自身はどうしたいと思っているのか。私は今、本当に勉強がしたいと思っているのか』と自問しました。つまり、もし私が責任を第一に考えるなら、『もしもこうだったら…』という過去への憤りに囚われず、前を向くことを選びます。そして、自分にこう言い聞かせるのです。『確かに、過去にそういうことがあったのは事実です。しかし、今もそれを引きずる必要はありません。もしも親が私に家業をさせるのではなく、無理やり勉強させていたら、今とは違う人生になっていたかもしれません。しかし、私はもうそこにはいないのです。だからこそ、私は今の自分の人生に責任を持つべきなのです。もし今の私が本当に勉強したいと感じるのならば、今の私がやればいいのです』」―セルジオ・イスラ

「枕元に常備しているオメプラゾール(胃薬)は、私の胃痛の元凶に対処するための薬です。それはパートナー…いえ、もっと正確に言えば、『パートナーと関わる私自身』です。この薬だけは手放すことができず、毎週か隔週のペースで必ず飲んでいます」―キケ・セグイ

私はストレスを感じると、すぐに胃の痛みに悩まされます。何年もの間、元パートナーとの関係の緊張のせいで、夕食がまともに食べられませんでした。食事がひどく不快に感じられ、消化に何時間もかかることもありました。結局、私の胃が、私自身が言葉にできなかった不快感を代わりに表していたのです」―メルセ・ファルコ

恐れと緊張

このタイプの人々にとって、恐れは意識しにくい感情です。本人がそれを自覚することなく、その恐れが引き起こすエネルギーが全身の慢性的な緊張となります。この緊張は、無意識のうちに体全体に広がり、特に筋肉や腱、内臓(胃、腸、胆のう、腎臓など)にこわばりが生じる習慣をつけます。この慢性的な緊張は防衛メカニズムとして働き、身体は常に緊張状態に置かれ、自由な動きができなくなります。

彼らの身体は、家庭内で表現を許されなかった感情をすべて抑圧してきました。そのため、恐れや怒りといった感情を意識的に感じ取ることができません。代わりに、筋肉の緊張や収縮として現れます。こうした人々は、自分の身体に対して強いコントロールをしようとして、身体の緊張を保つことに集中します。その背景には、「もしも周囲の高い期待に応えられなければ、罰や怒り、無関心にさらされるかもしれない」という幼少期の恐れがあります。SX1がエネルギーを外向きに発散するのに対し、SP1はエネルギーを内向きに閉じ込め、抑制とブロックによって静的なエネルギーを維持しようとします。そして、それこそが自分を守るために必要だと感じています。こうした人々は、「自分は何でもできる」という信念に基づく強い精神力を示しますが、その一方で身体的な健康が弱点になりやすい傾向があります。

恐れと向き合い、自分を支えるためには、まず身体に意識を向け、筋肉をリラックスさせることが重要です。動きや身体表現を通じて、停滞したエネルギーを解放し、自由な感覚を取り戻すことが大切です。

「私は自分の身体に厳しくしているわけではありません。ただ、意識もせず、気にかけることもありません。私のリズムに合わせて動くのが当たり前だと思っていて、それに気づくことすらないのです。普段から自分の身体の声を聞くことはなく、むしろ、不調を訴えると叱りつけてしまいます。『また余計なことを言い出して!』と、まるで身体を責めるかのように言ってしまうのです」―ブランカ・マルティネス

「肩は常に緊張しています。そこには、大きな責任感がのしかかっています。首の頸椎部分は特に硬いです。これは感情のコントロールと深く関わる部位です。このサブタイプの特徴として、歯ぎしりや食いしばりがよく見られます。これは、マッサージを受けるとより明確に感じますが、怒りを抑え込むために膨大なエネルギーが使われている証拠です。肩、首、背中は特に筋肉がこわばりやすく、慢性的な緊張を抱えやすい部位でもあります。さらに、柔軟性の欠如が見られ、骨が硬くなり、骨粗鬆症や関節のこわばりを引き起こしやすくなります。私自身、関節がとても弱く、左膝の手術を2回、背中の手術を2回受けました。そして今は右膝の手術を控えています。自分の身体がまるで錆びついたブリキの兵隊のように感じることがあります。腕を曲げたら折れてしまいそうな、そんな感覚です」―キケ・セグイ

「私は、脊椎の骨を折るまで自分の身体の状態に気づくことができませんでした。限界まで酷使することに慣れすぎていて、自分がどれほど無理をしているのかすら分からなかったんです。ある日、自分を追い込みすぎた翌日になって、『あれ、ここが痛い。何もしていないのに、なぜだろう』と疑問に思いました。そんな私を見て、パートナーは笑いながら言いました。『昨日あれだけ身体を酷使していたのに、覚えてないの?』と。しかし、私は本当に思い出せなかったんです。昨日の行動と今日の痛みがどうつながっているのか、まったく理解できませんでした」―メルセ・ファルコ

怒りを抑え続けることと、それに伴う緊張は、脳の活動や神経系、心血管系のバランスに影響を与えます。その結果、血圧や心拍数が上がり、アドレナリン、ノルアドレナリン、コルチゾールなどのホルモンが増加します(これらはストレス反応を調整し、危機的状況から脱するために、身体を動員するホルモンです)。さらに、肝臓での胆汁分泌が過剰になり、それが胆嚢に排出されることで、胆嚢が過剰な負担を受けます(これは胆嚢の炎症や機能低下を引き起こす可能性があります)。

「私は怒りが身体に与える影響を、自分の肉体で実感しました。手術前、私の胆嚢はひどく腫れていて、非常に過敏でした。怒りを感じると、胆嚢が痛み、熱を帯びて、内部で微かなうなり声を上げるのがわかりました。それから自分の思考を振り返ると、息子がしたことに対して、私は強く執着している自分に気づきました。『また同じことだ。こんなの理不尽だ。私はこんなことをする権利なんてないのに…』と考えていました。しかし、その執着を手放すと、痛みが急に和らぎました。私は、自分が内なる怒りにしがみつき、それを手放さずにいるせいで、怒りが体内を駆け巡り、私を攻撃していることに気づきました」―メルセ・ファルコ

純粋で強迫的な性質

自分の持ち物や家庭内の秩序を保つことへの執着は、混沌を受け入れられないという心の状態を反映しています。特に、感情や本能といった内面的な混乱に対する耐性が低いです。「無秩序」は、人生に自然に存在するものであるにもかかわらず、彼らはそれを「誤り」と感じ、物事がうまくいっていないかのように捉えます。彼らは、すべてが論理に従って整頓されていれば問題は解決すると信じています。対人関係の問題さえも整理整頓すれば解決できると思っている節があります。

SP1の強迫的な行動は、すべてを自分の管理下に置けるという感覚を生み出します。それによってSP1は感情、特に悲しみや無力感との深い向き合いを避けようとします。

また、彼らは清潔さにも強いこだわりを持っています。これは、純粋さへの欲求を反映しています。「罪のない」人間、すなわち完璧で汚れのない存在であろうとする理想を追い求めているのです。

厳格さ

一部のSP1は、「快楽は義務に従うべきだ」という考えに加えて、本能的な衝動を抑え込む強い禁欲的価値観(ピューリタニズム)によって、自分自身を必要以上に苦しめてしまうことがあります。こうした自己への厳しさや、他者に対する厳格な姿勢が、彼らの真面目で規律正しい態度につながります。

クラウディオ・ナランホ

Naranjo, C. (2012). "27 personajes en busca del ser"

SP1:心配

イチャーソは、SP1に特徴的な情念を「苦悩」と呼びましたが、ナランホは「心配」という言葉を使うことを好みました。実際、SP1にとって心配は、本物の情念と言えるほど強いものです。それは単に「過度に心配する」ことや「心配しなければならない」と感じる行動にとどまらず、問題がない状況にも過剰に心配し、時には修正の必要がないものを直そうとして、かえって物事を悪化させることもあります。この「心配する必要性」は、過度に先を見越したいという欲求や、すべてをコントロール下に置こうとする気持ちから生まれ、根底には自己の生存や安定が脅かされることへの深い恐れがあります。

実際、彼らは自分自身を「非常に不完全だ」と感じており、そのため絶え間なく自己改善を試み、時にはそれが強迫的なまでに続きます。一方、彼らの怒りは、友好的で親切な態度の背後に隠れており、そのため自分の怒りや不満を外に出すことはほとんどありません。言い換えれば、彼らは怒りを「善意」に変換してしまうのです。

サンドラ・マイトリ

Maitri, S. (2001). "The Spiritual Dimension of the Enneagram"

SP1:不安

SP1の人々にとって、基本的なニーズを満たすことは常に不安を伴います。彼らは自分がそのニーズを満たすにふさわしい人間ではないと感じています。そして、何かがうまくいかず、自己の生存が危うくなるのではないかと強く心配します。これはしばしば自己成就的予言となり、事前に行動を起こしたり、不安から物事をうまくこなせなかったりすることがあります。この不安は、根底にある信念である、「自分には十分に良いものを手に入れる価値がない」という思いから来ています。そのため、何か問題が起こると、過度に心配してしまうのです。彼らの情念である「憤怒」は、誰かが自分の生存を脅かすと感じたときに引き起こされますが、もっと深いレベルでは、「完璧でない自分は生きる価値がない」という自己への怒りが影響しています。

ベアトリス・チェスナット

タイプ1(自己保存)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Enneagram Guide to Waking Up"

このサブタイプの人々は、最も強い心配や不安を感じ、最も強迫的に完璧さを追い求めます。彼らは幼い頃から過度に責任を感じ、心の中で「生き延びられないかもしれない」という恐れ(「生存に対する恐れ」は物理的な生命維持だけでなく、人生全般に対する不安感)を抱いています。SP1は自己批判は非常に強いですが、他人に対しては比較的批判的ではありません。また、怒りを最も抑圧するサブタイプでもあります。そのためSP1は自分の怒りを感じにくいです。その抑圧された怒りは、身体の緊張や過度の管理、恨みとして現れたり、すべてを支配しようとする欲求となったりします。しかし、このサブタイプの人々は、最も温かく、親しみやすいタイプでもあります。SP1の抑圧した怒りは、外向きには優しさや気配りに転換されるからです。

もしあなたがこのサブタイプであるならば、日常のあらゆることに強い不安や心配を感じていることでしょう。この「強い不安や心配」は常に続く緊張状態を示し、物事が順調であっても安心できないことを表します。しかし、どれほど強迫的な努力を捧げ続けても、物事がうまくいったと感じられず、決して「大丈夫だ」と思えません。あなたは無意識のうちに怒りを抑え込んでおり、その反動として非常に礼儀正しく、親しみやすく振る舞っているかもしれません。抑圧された怒りは内面化され、自己批判を助長し、体内に閉じ込められます。あなたは自分の行動の全てを細かく管理し、物事を完璧にこなさなければならないと感じます。成長するためには、怒りを無意識的に抑えるのではなく、怒りを適切に認識して対処する方法を学ぶ必要があります。

タイプ1(自己保存)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Complete Enneagram"

SP1は、タイプ1の中でも最も完璧主義的なサブタイプです。彼らは自分自身や自分が行うことをより完璧にしようと懸命に努力し、その過程で怒りの情熱を表現します。SP1の場合、怒りは最も抑圧される感情です。反動形成(心理学で不快な感情をその反対の行動に変える無意識的なメカニズム)という防衛機制によって、怒りの強い感情が温かさに変換され、その結果、親しみやすく、慈悲深い性格が形成されます

タイプ1(自己保存)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Complete Enneagram"

SP1:心配

SP1にとって、怒りは最も抑え込まれる感情です。自分の怒りを脅威と感じるため、反動形成(抑圧された感情がその正反対の行動として現れる心理的防衛機制)という防衛機制が働き、怒りの強さが温かさへと変わります。これは大きな変化です。怒りっぽい人が自分の怒りを切り離して、穏やかで支援的な善意を持つ人に変わるのです。SP1の怒りとその抑制は、善意、完璧主義、英雄的な努力、規則を守る姿勢、そして完璧を追求する強い努力として現れます。

その結果として、SP1は外見的には非常に穏やかで、品行方正、親切な人物に見えることが多いです。SP1は、自己を完璧にしようとする過程で、怒りは悪いことだと信じ、できるだけ寛容で、許し、優しさを示すことを美徳とします。実際には、その内面で強い怒りを抱えていますが、それを抑え込んでいます。プレッシャーを受けると、その怒りが苛立ち、恨み、フラストレーション、あるいは自己正当化(自分の正当性を過剰に主張する態度)として表れることがあります。

SP1は非常に多くの心配を抱えています。このサブタイプは、先見の明を必要とし、すべてを計画したいという欲求から、すべてをコントロールしようとする強迫的な傾向を持っています。SP1は、しばしば混乱した家庭環境で育ち、幼いころから家族の安定を保つ役割を担ってきました。彼らは通常、家族の中で最も責任感の強い人物でした。おそらく初期の環境で、制御できない要素(例えば家庭内の混乱や予測不可能な状況)によって自分の生存が脅かされると感じる経験をしたため、このサブタイプは強い不安を抱えています。物事が順調に進むことに自信を持てず、その結果、過剰な責任感が心配や、やきもきした気持ちとして現れます。たとえ物事がうまくいっていても、この傾向は続きます。

SP1は、物事が一瞬で悪い方向に進む可能性が常にあると感じており、そのため、単なる注意を超えた高度な警戒状態を維持し続けなければならないと考えています。また、生存に対する安心感が乏しく、物事がうまくいかないことや失敗の結果に対する漠然とした不安に耐えることなく苛まれています。本来なら安全であるはずの状況でも安心できず、その状態が長く続いてしまうのです。これにはSP1の強いコントロール欲が関係しています。SP1は、もし状況に対して自分にできることが何もないと確信すれば、皮肉なことですが心配を手放すことができるでしょう。しかし、何かできることがあると信じ続ける限り、彼らは警戒を解いて身を休めることができません

この強い不安感や警戒心は、時に強迫的な防衛行動を引き起こします。SP1は不安を軽減しようと、特定の思考にとらわれたり、衝動的に特定の行動を繰り返したりします。こうすることで、「自分が物事をコントロールできている」という感覚を得ようとし、その結果、少しでもリラックスしようとするのです。しかし、心配すべきことが多すぎるため、SP1が本当にリラックスできる瞬間はほとんどありません。このサブタイプは、典型的な完璧主義者です。物事がうまくいかなかったときには、特に自分に厳しくなります。ナランホが指摘するように、SP1はコントロールを緩めることが難しく、状況を自然に任せることができません。必要があれば自ら介入し、重要な細部が完璧に保たれるようにします。SP1にとって、「正しいことをする」ことや「完璧な解決策を見つける」ことこそが、安全を確保する唯一の手段なのです。

SP1に「心配」というラベルが与えられた理由は、このサブタイプが「心配」や「苛立ち」に対する強い感情的な情念を持っているからです。単に心配しやすい性格というわけではなく、SP1は「心配しなければならない」という抑えきれない衝動に苛まれています。SP1はこの「心配」の衝動に従って、次の3つの目的を果たすために常に心配し続けます。一つ目は、どんなに小さなことでも完璧を追求することです。二つ目は、どんな大きな災難でも避けることです。そして三つ目は、どんな些細なことでも非難を免れることです。

心配の奥には怒りが潜んでおり、それこそがSP1が最初に抱く感情です。そもそも心配しなければならない状況に置かれること自体が、怒りを引き起こしているのです。幼いSP1は、自分の怒りを意識することができません。なぜなら、怒りや強いフラストレーションを感じること自体が、幼いながらに過度な責任を背負っている彼らにとって、大きな脅威となるからです。しかし、成長するにつれてSP1は怒りを抱えるようになり、その怒りが大人になったときの性格を形作る要素となります。

対人関係では、SP1は批判にとても敏感で、非難されると強い怒りを感じることがあります。対立の場面では、SP1は自分が正しいと信じ込んで頑固になったり、譲らなかったりすることがあります。自分の失敗を認めることは比較的すぐに出来ますし、他の人が謝罪すると許すことも多いです。しかし、パートナーには高すぎる基準を求め、批判的になりがちです。しかし、SP1は非常に信頼でき、頼りにされる存在でもあります。

SP1は、タイプ6、特にSO6やSP6と混同されることがありますが、重要な違いがあります。SPの場合、怒りという情念が大きな役割を果たしており、自分が信じる完璧さの基準には自信を持っています。一方、タイプ6は恐れと疑いによって動かされ、常に自分の行動が「これで本当に正しいかどうか」を不安に思います。SP1は「なぜ私だけが物事を改善しようと努力しなければならないのか」と感じることが多いのに対して、タイプ6は主に不安にどう対処するかについて悩んでいます。

ハイキ

The Haiki Enneagram Website

SP1:心配

このタイプ1は、最も完璧主義が強く、不安を抱えやすいサブタイプです。怒りという情念は、過剰なコントロールへの執着や、「~しなければならない」という強迫的な思考パターンへと変化します。そのため、彼らは常に強いストレスを感じています。彼らはほぼ絶え間なく不安を抱えており、その心配の中心には「すべてを確実にうまく進めること」があります。ただし、彼らにとっての「うまくいく」とは、普通の基準を超えて完璧であることを意味します。一般的な尺度では物事を判断できず、常に先を見越し、状況を完全に自分の管理下に置こうとします。しかし、「今のままでも十分に良い」とは思えず、常に改善し続けなければならないという強迫観念にとらわれています。その結果、自分を未熟で欠点が多いと感じ、必要以上のプレッシャーを自らに課してしまいます。また、怒りや不安、コントロール欲求を表に出さず、それらを隠そうとする傾向がありますが、結局はその取り繕いに多くの時間とエネルギーを費やしてしまいます。

クラウディオ・ナランホの言葉を借りれば、SP1は次のような人物です:「この人はまさに、心配を情念として生きています。単なる『心配性』というレベルを超え、すでに十分に良いものに対してまで不安を抱き、ときには、手を加える必要のなかったものを修正しようとするあまり、かえって台無しにしてしまうこともあります。この過剰な心配は、極端なまでの先見性への執着や、すべてを管理下に置こうとする欲求の表れでもあります。そして、その根底には、『自分の生存が脅かされている』という深い恐れがあります」

彼らは、ほぼ完璧な人物に見えるよう努力し、そのために膨大なエネルギーを費やします。常に体が緊張しており、その影響で体調を崩すこともあります。また、意外かもしれませんが、SP1は時に感情的に見えることもあります。こうした特徴から、SO6が自分をタイプ1だと誤認しやすいように、多くのSP1も自分をタイプ6だと誤認しがちです。これは、SP1の怒りが表に出にくく、一見すると単に「コントロールと安全を求める人」に見えるためです。

SP1は非常に理性的で一貫性があり、その雰囲気はSO3以外のタイプ3にも似ています。SP1は一見すると感情を抑えているように見えますが、内面では葛藤を抱えています。それでも、外から見る限りは、ほぼ完璧な人物のように映るかもしれません。すべてのタイプ1の中で、SP1は最も親しみやすく、友好的な印象を持ちますが、実際には徹底的に抑え込まれた怒りを抱えている人でもあります。非常に勤勉で、実践的な視点を持っていますが、関心のないことに対しては驚くほど批判的になることがあります。

クラウディオ・ナランホによれば、アリストテレスはSP1の好例です。アリストテレスは実践的な哲学者であり、弟子たちに多大な影響を与えました。

カルメン・デュラン、アントニオ・カタラン

Durán, C. and Catalán, A. (2009). "Los engaños del carácter y sus antídotos"

SP1:心配→コントロール

このサブタイプの場合、タイプ1の「憤怒」が絶え間ない心配に変わります。SP1の心配は、彼らの攻撃性を隠す役割を果たします。SP1は、この心配によって他人の生活に介入する権利を得たと感じ、すべてを支配しようとする強い衝動を抱くようになります。したがってSP1を表現するにあたって、筆者らは「コントロール」という言葉を提案したいと考えています。この「コントロール」には、不安や自信のなさが強く関わっており、「自分や、自分の大切な人に、何も悪いことが起こらないように」という強い願いが込められています。SP1は、コントロールを維持することが自分や大切な人に悪いことが起こらない保証だと考えています。また、コントロールは「物事を正しく行うこと」と密接に関連しておりいます。彼らは、間違った行動が破滅的な結果を招き、正しい行動が安全を確保すると信じています。この信念には、「正しく行動すれば私を尊重するだろう」という、ある種の因果応報的な期待を孕んだ人生観が含まれています。そして、この心配によって正当化されたコントロールは、愛を示す歪んだ形として現れます。


出典:
本記事はPDB(Pdb: The Personality Database)様のwikiであるhttps://wiki.personality-database.com/様の上記リンク先ページを日本語へと翻訳し、訳者判断でアンダーラインを引いたものです。CC BY-NC-SA 3.0を継承しています。

QooQ