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エニアグラム タイプ7:ソーシャル(SO7)※カウンタータイプ

2025年3月17日月曜日

SO エニアグラム サブタイプ タイプ7 生得本能

エニアグラム・生得本能(本能のサブタイプ)サブタイプ別の詳細な特徴、海外書籍情報の翻訳・まとめ

タイプ7:ソーシャル(SO7)の詳細

生得本能・ソーシャルにおけるタイプ7の「暴食」

生得本能ソーシャルに置ける暴食は、社交的な安心感への渇望、そしてそれを得るために必要だと信じるあらゆるものへの欲求として現れます。この欲求が彼らの社会的活動の方向性を決めてしまいます。彼らの計画はしばしば、自分に欠けているものを手に入れ、帰属意識(他者とのつながりを感じること)、社会的受容、社会的地位を得る未来を思い描くものとなります。SO7についての一般的な誤解として、彼らが本当に無私の存在であり、他者のために自己犠牲を払っているというものがありますが、それは必ずしも真実ではありません。自己犠牲というテーマはSO7において一般的ですが、この「犠牲」とは、他者のための自己犠牲というよりは、自らの欲求を手放す(放棄する)ことに関わるものです。さらに、仮にSO7の行動が自己犠牲的に見えたとしても、実際には純粋な無私の精神から生じるものではなく、むしろ他者から非凡で聖人のように見られるためという利己的な目的から生じていることがしばしばあります。SO7は、痛みを伴う劣等感や、自分には価値がないという感覚、拒絶されることへの恐れから逃れるために、ナルシスティックな理想自己にしがみつきます。他者の賞賛の眼差しを確保した瞬間、SO7は自分の望みを手に入れ終えるため、もはやそれ以上他者に尽くすことをやめ、より深い絆が生まれないように社交の場から逃げ去ってしまいます。そうすることで、自分が偽物であると見抜かれることを防ぎ、また、より深いレベルでの関係に責任をもつことを避けられるのです。これはタイプ7特有の恐れの表れです。この戦略全体には、多くの熱意、理想主義、社交スキルが必要になりますが、その特性の裏には、自己中心的な補償が隠されています。例えば、他者からの賞賛、承認、良いイメージの確立、対立の回避、そして他者に恩を感じさせることで見返りを期待することがそれにあたります。これらはすべて、熱意を利用した操作によって成し遂げられます。

イチャーソはSO7を「社会的制約」と名付けました。彼らは、常に自分の社会的な活動をあらかじめ決めてしまう人であり、貪欲な搾取者にならないために善良さや聖人性という理想を抱こうとします。ナランホはこのタイプの人々を「良い子」と呼び、パフォーマンス(他者に見せるための演技的な振る舞い)、親切心、寛大さ、魅力を通じて「善良な人間」としてのイメージを承認してもらおうとする傾向があると指摘しています。しかし、ナランホは「すべての良い子の内側には、意地の悪い子供が隠れている」と述べており、この面は巧妙に隠されているとも指摘しています。

特性の構造

Naranjo, C. (2018). "La pereza psicoespiritual" (Translated by star_shine)

以下の「特性の構造」は、タイプ7に関する書籍『Golosos, tramposos, soñadores y charlatanes(食いしん坊、詐欺師、夢想家、そしてペテン師)』の記述を要約したものです。この書籍は、クラウディオ・ナランホの熱心な弟子たちによって執筆されましたが、ナランホの名義で出版され、彼の監修を受けています。

ナルシシズム

ナルシシズムは、SO7の中心的な特性です。ここでは、臨床的な意味ではなく、日常的な視点から、自己中心性の表れとして捉えます。

ここで言うナルシシズムとは、SO7が現実と関わる際に、自分を基準に物事を解釈する傾向のことです。まるで、出来事や経験、人々が、無意識のうちに彼らの人生の計画や自己実現のために存在しているかのように感じられます。

幼少期に母親から十分な愛情やケアを受けられず、体の感覚を通じて自分を認識し、感情を調整する力が育まれなかった可能性があります。さらに、「この子はきっと重要な人物になる」といった母親の期待が強く、過度に理想化されていたかもしれません。このような母親のナルシシズム的な投影は、感情的というよりむしろ観念的なものであり、子どもがそれに同一化することで、自分を理想化する基盤が作られます。

こうした影響は時間とともに固定化し、彼らは自分のポジティブな側面だけを認識するようになります。そして、「自分は人生を楽しんでおり、何も、誰も必要としない存在だ」という理想的な自己イメージを抱くようになります。

SO7のナルシシズムは、社会的な振る舞いの中に隠されています。表向きは、自己犠牲の精神が強く、礼儀正しく、他者を助けることを重視し、怒りを抑える傾向があります。しかし、これらの行動によって、彼らは自分を他者より優れた存在だと感じます。また、自分や他者を理想化することで、内面の痛みから距離を置き、困難な状況でもその痛みを直視しないようにしています。

彼らが避けようとするのは、拒絶されることへの恐れ、自分が受け入れられないという感覚、見捨てられる不安、自己価値の揺らぎ、そして「何もしなくてもよいのではないか」という考えです。こうした不安を紛らわせるために、彼らは魅力的で人を惹きつけるような振る舞いをします。その背景には、全能感に満ちた誇大な自己イメージや、理想化された偽りの自己がありますが、実際にはこれこそが彼らの弱さなのです。それは、見た目は美しいものの、不安定な地盤の上に建てられた家のようなものです。時間が経つにつれ、その構造には綻びが生じます。ちょうどナルキッソスが自らの美しさに魅了されて身を滅ぼしたように、SO7もまた、自らの魅力や人を操る能力を発揮することで高揚し、すべての状況を「自分の運命、さらには人類の運命を決定づけるもの」として捉えます。そこに、彼らは興奮を覚えるのです。

要するに、SO7のナルシシズムは、「世界が自分を中心に回っている」という自己参照性と、「自分は偉大な存在である」という誇大性の二つの側面を持ちます。これは、彼らが理想の自己像に強く同一化していることから生じるものです。

自己中心性

他者とうまく関わることができないため、孤独を伴うさまざまな行動が生じます。自分が根本的に不適切であるという感覚があり、これは一種の社交不安のようにも見えます。また、他者と関わる機会の少なさや、拒絶されることへの強い確信が共存しています。

自己犠牲を通じた助けは、実は自己愛的な性質を持ち、自己中心性と他者の利用が含まれています。これは無意識のうちに行われるものの、表面的には無私の行為のように見えます。私的な場面ではこの自己中心性と他者を利用する傾向がよりはっきりと現れ、それが受動的な態度として表れます。つまり、自ら積極的に行動するのではなく、他者から世話を受けることを暗に期待する形で表出するのです。

嫉妬と挫折への不寛容

嫉妬はタイプ4の中心的な情念ですが、このタイプにおいても現れます。それは、「他者は自分よりも楽に、快適に生きており、努力せずとも欲しいものを手に入れている」という考え方と結びついています。まるで、何もせずにすべてを手に入れる子どものように、絶対的な受動性の中で生きているように見えるのです。

根底には、「自分には何かが足りない」という感覚が常にあり、それが「自分は特別な存在だから、特別な扱いを受けるべきだ」というナルシシズムと結びついています。さらに、名声を持つ理想化された他者への嫉妬や、権威への反発が加わることで、どんな些細な不満でも不安定な均衡を崩し、自己破壊的な反応を引き起こしてしまいます。

まるで、「今この瞬間を受け入れられない」という感覚が根底にあり、その不満が「虚栄の酩酊の興奮を再び味わいたい」という強迫的な欲求によって構造化されているかのようです。社会的犠牲を通じて「自己の使命を果たした」と感じると、突然強いエネルギーが生まれ、それが深い自己同一性の感覚をもたらします。その瞬間、まるで魔法のように、自分の弱さや脆さ、そして痛みが洗い流されたかのように感じるのです。

このタイプの人は、こうした幻想の中で生き、まるで人生の理想が実現されたかのように振る舞います。しかし、それが現実と衝突すると、避けられない挫折を経験します。タイプ4が「痛みや悲しみを維持するために自ら挫折を選ぶ」のとは異なり、ソーシャル本能の強いタイプ7は、快楽を追い求め続けることで挫折を回避しようとします。しかし、その結果、破壊的なスパイラルに陥り、人生を試し続けることになるのです。

過剰さ

後で詳しく見ていくように、この人物は自分の肉体を必要以上に使いすぎる傾向があります。特に性的な面でそれが顕著です。セクシュアリティは、緊張と解放が交錯するため、強い渇望の対象となります。さらに、アルコール依存、喫煙、テレビ、仕事など、あらゆる手段を使って、自分にとって受け入れがたい現実や不満を何とか変えようとします。こうした行動は、軽躁的な情動状態を利用しながら、自分の内面を調整しようとする試みでもあります。SO7の心の中には、「本来あるべき自分になれていない」という苛烈な自己愛の声が響き続けています。その声をかき消すために、SO7は過剰な行動に走り、それが一種の麻酔のような役割を果たします。躁状態の中では、一瞬だけでも現実を覆い隠し、自分の理想に近づいたように感じられるのです。

しかし、こうした行動は次第に抑えがたい強迫的衝動となり、肉体が重大な限界を迎えるまで止まりません。SO7の人生に対する姿勢には、怒りを伴う抗議と、「正当な報い」を求める強い思いが込められています。それは、人類を救う恩人や偉大な導師、力強いシャーマンになろうとしながらも、その過程で味わった苦しみと挫折への反動でもあります。SO7にとって、これは唯一の手段であり、極端な形で人生に挑むことでしか、自分の中で帳尻を合わせることができないのです。

良き存在、役に立つ存在

SO7の「善良さ」は、他者から「求められている」「満たされている」と感じさせる視線を引き出すための戦略として理解する必要があります。多くの場合、彼らは幼少期に母親との関係の中で身につけたパターンを繰り返します。その視線が意味するのは、無条件の愛ではなく、「私の望むように振る舞い、私を満たしてくれるなら愛してあげる」という条件付きの愛です。

SO7は快楽に強く依存し、痛みや欲求不満を極端に避ける傾向があります。この傾向を支えているのは、無意識のうちに他者を魅了し、甘やかし、機嫌を取ることで注目を集めようとするパターンです。社会的な場面では、この戦略が「良い人」や「役に立つ人」として表れます。一見すると他者のために尽くしているように見えますが、実際には自己中心的な動機が根底にあります。

SO7の落とし穴は「自己満足的な協調」にありますが、それが誰にでも常に発揮されるわけではありません。彼らが関心を持った特定の相手に対して、しかも限られた期間に限って現れる特徴です。エニアグラムには「善良で役に立つ」特性を持つタイプが複数存在しますが、「聖人になることを人生の目標にする」のはSO7だけです。彼らは、優しさや奉仕を通じて社会的な承認を得ようとしますが、その裏には攻撃的な自己愛と、並外れた存在でありたいという欲求があります。「聖人よりも善良な存在はいるのか?聖人よりも特別な存在はいるのか?」。聖人とは、共同体によって認められた人物です。SO7は、ただ個人的に善良であるだけでは満足せず、公の場でその評価を得ることを求めます。そして、この「聖人」というイメージは、彼らが肉体的な暴力や生殖的快楽を避ける傾向とも一致しています。

罪悪感

まず、アッシジの聖フランチェスコの生涯におけるエピソードから見ていきましょう。

「彼は以前にも同じようなことを経験していました。1220年から1221年の冬、度重なる病気の再発に苦しみ、やむを得ず調理された肉を口にしました。しかし、少し体調が回復すると、彼は副司祭のペドロ・カッターニに命じて、半裸の状態で首に縄をかけられ、アッシジの街中を引きずり回されました。これは彼の説教の最後に行われました。そして、犯罪者の処刑場でもあるメイン広場に着くと、大勢の群衆の前で、自分が犯した『大食』の罪を大声で告白したのです」

すでに見てきたように、強い神経症的な欲求の一つとして、SO7は「特別な存在」として見られたいという欲求を抱いています。そして、そのための指針は、彼らが世界から得た情報をもとに形作られています。SO7の存在の究極的な目的は、「理想の自己」によって決定づけられます。フロイトは、超自我を「心を構成する三つの要素の一つ」とし、これが自我を監督する役割を持つとしました。このサブタイプにおいて、超自我は特に重要です。なぜなら、「犠牲」という概念が、精神を内なる理想へと服従させる特殊な形をとるからです。SO7の精神世界では、「理想の自己」と「現実の自己」が絶えずぶつかり合い、激しい葛藤が生じます。

タイプ7の三つのサブタイプの中でも、SO7は最も超自我とのつながりが強い存在です。SO7は、まるで「聖杯」へと至る道を指し示すものとして、超自我に頼っています。この内面の分裂は、自己との関係だけでなく、他者との関係においても不安を生じさせます。SO7は、自らを二重の存在として認識せざるを得ないのです。

内面では、自らを追い詰めるような心理的動きがあり、強い罪悪感を抱えています。これは、自分を完全に実現できないことへの絶え間ないフラストレーションや、生きていることそのものへの不満の表れでもあります。この特徴はタイプ6と似ていますが、大きな違いは、SO7には「恐怖から逃れたり、それを回避する能力」がある点です。タイプ6は恐怖と常に共存しますが、タイプ7はそれを巧みに避けようとします。この視点から、聖フランチェスコのエピソードを振り返ると、彼は自身の「現実的な欲求」のために一度は掟を破りますが、その後、壮大な懺悔の儀式を行います。罪を告白し、人々の前で苦しむことで、SO7は神の目には許されたと感じ、結果的に自身の精神的優越を確立するのです。ここには、一種の享楽の要素が見て取れます。SO7は「恐ろしいほどの罪悪感」によって、かえって自己実現の感覚を得ているのです。

隠れた反抗心と権威の価値低減

SO7は、一見すると反抗的には見えません。少なくとも、目立って危険な反逆者ではありません。しかし、彼が親のような権威的な存在とどのように関わるかを考えると、そこには操作的な態度や欺瞞があり、さらには「自分のほうが優れている」という隠れた感覚が潜んでいます

そのため、SO7の反抗は、自分を制限したり、失望させたり、現実に引き戻したりするものに向けられます。ただし、彼らは対立を恐れているため、真正面からの反抗はほとんど見られません。彼が反抗を表に出すには、強い「母性的な存在からの承認」が必要であり、また、反抗が自分の理想と一致する形で表現される必要があります。

心理学者のパコ・ペニャルビアは、反抗を「対抗依存的な反応」として説明しています。そこから、反抗には「父に向けられたもの」と「母に向けられたもの」の2種類があると考えられます。これは、幼少期に期待を裏切られた親への潜在的な抵抗であり、自分が受けた攻撃や混乱した親子関係に対する無意識の仕返しとも言えます。

この反抗心は幼少期に根付き、思春期にはさらに強まります。しかし、その表現方法は直接的ではなく、言葉にされることも少ないものです。それは、目の前のストレスや痛みを避けるために、すでにどこか別の場所で「処理」されているのです。

SO7は、権威に対する反抗心を抱えており、規律を軽視し、責任から逃れようとする傾向があります。その結果、彼の行動には表面的な軽薄さが伴うこともあります。また、どこでも「いい子」でいる必要がないように自分を強く見せる一方で、無限の可能性に満ちた幻想や新しい計画に逃避しがちです。

このタイプの人は、表面的には従順に見えるかもしれません。しかし、それは対立を避けるための「道具的な服従」であり、心の中では権威に対する反発が渦巻いています。SO7は、権威を本当の意味で受け入れているわけではありません。また、権威と直接対立するための攻撃性も持ち合わせていません。そのため、彼が反抗する際には、あくまで「言葉」と「正規の手段」を用います。

SO7の反抗は、内面的なものであり、「アポリア(理論的な袋小路)」や「カオス」といった概念と結びついています。それは、明確な境界のない混沌とした領域への飛び込みであり、個人的な「宙ぶらりんの状態」に身を置くことでもあります。その中では、ルールは存在するものの、解釈次第でどうにでもなるのです。

このため、SO7は、たとえルールを表面的には受け入れたとしても、その背後にある意味を共有しているわけではありません。むしろ、権威を象徴する人物を軽んじながら従うのです。彼の反抗は、隠された怒りを伴いながらも、成熟した対等な形での対決には至りません。

また、SO7は「知的な反抗」を好みます。彼は、既存の知的権威を受け入れず、理論を深く掘り下げるのが苦手です。そのため、知識を広く浅く収集し、それを自分の「特別さ」を演出するための道具として使うことがよくあります。彼は、新しいアイデアや理論を熱心に取り入れますが、それをじっくり理解する前に、自分のものにしたかのように振る舞いがちです。そして、批判を通じて「システムの弱点を見抜く」ことに重点を置き、その正当性を疑い、すぐに拒絶する傾向があります。

この視点から見ると、SO7にとって「すべてのアイデアは面白いが、どれも決定的ではない」「どの理論も魅力的だが、完璧なものはない」となります。彼は、各理論や人物に対して、あたかも「付箋」を貼るように、表面的な特徴だけを拾い上げます。そして、「知識をむさぼるように吸収し、究極の真理を求める」ことに突き動かされていきます。

しかし、彼には「知的な慎重さ」が不足しており、少しずつ知識を積み重ねて深化させることが苦手です。あらゆる分野の情報を吸収するものの、結局は自分がすでに持っている枠組みに戻ってしまいます。そのため、知識の扱いが極端に表面的になりやすく、再び「批判的に再解釈する」というサイクルに入ってしまうのです。このような態度は、周囲の人に「SO7の思考は、どんな考え方にも共感できるが、同時に真逆の立場にもなれる」という印象を与えます。これは、彼の「認知的多様性(コグニティブ・ポリモルフィズム)」と呼べる特徴でもあります。

さまざまな理論に対する彼の掘り下げ方は、基本的に「教師への反抗」という姿勢と結びついています。ただし、その反抗はあくまで機知に富んだものであり、決して相手を直接攻撃するような破壊的なものではありません。

規律を受け入れられず、責任を恐れる

SO7は、自分に規律がないことを実感したとき、初めて自分の甘さを認めざるを得なくなります。彼らが理解している「規律」とは、何かを諦めることによる受動的なものです。つまり、積極的にルールを守るのではなく、単に何かを放棄することで規律を守っているつもりになっているのです。行動の面では、彼らはあらかじめ決めた目標に沿って計画を立てたり、それを実現するためにコツコツ努力したりすることが苦手です。その代わり、その場の思いつきや状況の流れに身を任せたり、人間関係の中で自分をよく見せるための短期的な目的を優先する傾向があります。彼らが一貫して持ち続けられるのは、自分の価値を高めたいという自己愛的な動機だけです。しかし、それを超えて本当に意味のある目標に向かい、努力を続け、約束を守ることにはあまり価値を見出せません。知的なレベルで計画を立てることに満足し、実行に移さないことが多いため、結果として信頼に足る人物とは見なされにくくなります。

信頼の観点から見ると、SO7は自分自身の存在価値を十分に信じることができません。そのため、人生の本質的なプロジェクトに深く関わることができず、責任ある立場や長期的な取り組みに対して消極的になります。この根本的な姿勢は、約束を守れず、合意を長く維持できないという行動パターンによって強化されていきます。彼らは、約束を破る理由を理屈で正当化することはできますが、それによって自分自身の敗北感や「自分には価値がないのではないか」という感覚を消すことはできません。このような神経症的な傾向は、SO7が社会的な場面で同じような失敗を繰り返す原因の一つになっています。

計画者と理想主義者

SO7は、さまざまなプロジェクトを考えたり、夢を実現する方法を想像したりしながら生きています。ただし、想像することと実際に行動することの違いを曖昧にしがちで、理想の世界にとどまりやすい傾向があります。新しいアイデアには熱心に取り組みますが、実際の実行段階になると途中で投げ出してしまうことも少なくありません。この傾向には、二つの要因が影響しています。一つは、困難に直面したときに、それを乗り越えるための強い意志や対立を乗り越える力を発揮しにくいこと。もう一つは、どんなプロジェクトも、頭の中で思い描いているときが最も魅力的であり、現実に取り組むと必ず期待とのズレや挫折が生じることです。理想の世界では完璧だったものが、現実では思い通りにならないというギャップに直面するのです。

SO7は、常に選択肢を多く持っていたいと願う一方で、一つの選択を確定することに難しさを感じます。恋愛関係においても、束縛を感じやすく、一つの道を選ぶことに確信が持てません。どんな決断をしても「これが正解だった」と思えず、その疑念や後悔から生じる苦しみを避けようとします。そのため、彼らは「すべてが可能な状態」に戻ろうとしがちです。そこでは、何かを決めてしまう必要もなく、自分の限界や不完全さと向き合う必要もないからです。

選択肢が多いことは、決断を難しくする要因となります。迷うこと自体が問題なのではなく、どの選択をしても何らかの形で失望や不満が伴うと分かっているからです。責任を引き受けることへの抵抗感や、自分を律することの苦手さが、この傾向を助長し、「永遠の若者」のような生き方へとつながります。その結果、長期的な責任を負うことが大きな負担となり、それを避けるためにさまざまな回避行動をとります

新しいことへの興味、旅行、転職、別の街に住む可能性を考えることなどは、常に「逃げ道」を持っておくための戦略となることがあります。こうした思考の習慣は、年齢を重ねるにつれて直面する困難から自分を守る役割を果たします。しかし、こうした「ゲーム」は短期間なら楽しいものの、長く続けることでかえって不安を生むこともあります。

空想的な計画を立てることによって、現実の困難や挫折から逃れることがあります。そして、その計画を考えているだけで精神的に満たされ、実際に行動を起こす必要性を感じなくなることもあります。これは、できるだけ楽しみを増やし、現実とのぶつかり合いによる苦痛(挫折)を最小限に抑えたいという心理と深く結びついています。

さらに、空想の世界は、SO7が自分の理想や万能感を存分に表現できる場所でもあります。現実の制約に邪魔されることなく、思い描いた壮大な自己像を守ることができるのです。そして、その理想は、自分自身のためというよりも、より大きな存在に奉仕するものとして機能します。

権威への懐疑

私たちはすでに、SO7が「特別な存在」でありたいと強く願うことについて触れてきました。では、権力という観点から見て、最も特異な行動とは何でしょうか? それは、権力を自ら放棄することかもしれません。

SO7は、権威や上下関係のはっきりした組織に対して強い不信感を抱くことがあります。これは、彼らの「反体制的な側面」とも言え、長期間にわたる責任を負うことや、組織に深く関わることを避けがちです。特に、伝統的な父権的な組織の中で権力を持つことには抵抗を感じ、そのような枠組みに縛られることを嫌います。

しかし、社会の中では、仕事を通じて独自の影響力を築くことができます。特に、ケアや知識の伝達といった、文化的に「女性的」とされる価値観に関連する能力を活かすのが得意です。そのため、家庭医やセラピスト、聖職者、教師といった職業に適性があります。また、教師や指導者、精神的なリーダー(知識を与える指導者)の役割を好み、人々に知識や気づきを与えることに喜びを感じます。

隠された競争心

彼らは「反リーダー」、つまり積極的に権力や指導的地位を求めるのではなく、あえて指導者的役割から距離を置く人物という立場をとることで、内心では自分の優位性を保ちつつ、表向きは競争とは無縁であるかのように振る舞います。こうすることで、攻撃的になったり、対立に巻き込まれたりせずに済みます。とはいえ、彼らは神経症を引き起こすナルシシズムという獣を養わなければなりません。そのため、彼らの競争心は激しいものの、決して表には現れません。SO7は何かしらの成果を手にして帰還する必要があり、それができないと内心で焦燥感に苛まれます。そして最終的には、自己正当化や理想化といった防衛機制を働かせ、無理やり自分のイメージを作り直します。

もし勝てないとわかると、「重要なのは1位ではなく2位になることだった」といった巧妙なストーリーを作り出します。失敗すると、自分は何でもできるという思い込みが崩れ、最も避けたい感情的な苦痛に直面することになるからです。負けることは彼の自己イメージを揺るがすため、競争し、勝つことはSO7にとって不可欠なのです。

対立を恐れる

SO7は、グループ内で個々が自分の個性を主張しようとすると、不安を感じます。そして、無意識のうちに違いを目立たなくし、対立がないかのように振る舞います。SO7の理想主義は、共同生活のコミュニティに典型的な、共有された権力(権威が一極集中せず分散する状態)を支持しています。それは、人の政治的・経済的・社会的な地位を気にせずに関係を築く社会構造を理想とするものです。そこではすべての「仮面」が取り払われ、人と人が純粋に向き合う世界が広がります。

「共有された権力」という理想には、自然な自己調整の可能性があり、それによって「対立を避けたい」という欲求が刺激されることが減り、対立による苦痛から逃れることができます。彼らは、異国への旅や修道院での隠遁、果てしない学びの探求などを通じて、常に何かの「通過儀礼」の途中にいることを望みます。それは、社会の仕組みに深く関わることなく、日常の繰り返しや痛みを避ける方法でもあります。まるで山の頂に立ち、心地よさを感じ、生き生きとし、周囲と深い一体感を味わうような感覚です。

この傾向は、聖フランチェスコがフランシスカンの戒律を作ったときにも見られます。彼の目的は、社会の仕組みと距離を置くことであり、そのために、お金や財産との関わりを断つ道を選びました。

最終的に、SO7にとって大切なのは、実際に役立つ社会の仕組みを作ることではなく、人々に希望を与えることです。

演劇的

SO7は、生まれつき演劇的な表現力とユーモアのセンスに優れています。言葉を巧みに使い、日常の何気ない行動を極端に誇張し、皮肉や風刺を交えた滑稽なものへと変えていきます。その結果、まるで本物のキャラクターのような、個性的で生き生きとした人物像を作り出します。彼らはユーモアを生み出すタイミングや間の取り方を自然に読み取り、どんな会話にもスムーズに入り込み、それを面白くすることができます。その場の雰囲気にぴったり合った動作や表情も、SO7のユーモアをさらに引き立てます。

長い間、楽しさを追い求めてきたことでSO7の思考はどんな状況の中にも笑いを見つけられるように組み立てられています。まるで無意識のうちに、あらゆる出来事をユーモラスに捉え直せるかのようです。この「笑い」はまず彼らの内面で生まれ、それが他者との交流の方法へと発展します。特に、人を惹きつける場面ではそのエネルギーが最高潮に達し、素早い発想と生き生きとした語り口でストーリーを展開する才能として現れます。この特性は、時に過剰な興奮につながり、一部の人にとっては躁的な状態に近づくことさえあります。

快楽主義的

SO7は、「愛」を自分の欲望が自由に満たされることと結びつけます。ここでも、彼らの内面と外面のズレとでもいうべき精神的な分裂が現れます。外側では、奔放な快楽主義を「快楽を楽しむ能力(快楽をうまく引き出し、それを享受する才能)」として正当化し、それを自分の魅力の一部として誇示します。彼らは、快楽を見つけ、手に入れ、存分に味わうことに長けており、それを自己陶酔的な自己演出の手段として使います。そして、自分の奔放さを誇りながらも、「快楽に溺れることなく、自由にコントロールできる」と主張します

しかし、内面では、快楽への過剰な依存に振り回されています。心理状態に応じて、「自分の存在をかろうじて感じられる最低限の感覚を取り戻すため」に、さまざまな快楽を大量に求めることもあります。この内面的な現実は、「快楽をうまく活用する」というよりも、「依存症」に近いものです。彼らにとって、快楽は「自己陶酔的な苦痛」、つまり自己愛的な傷つきや自己評価の低下による心理的苦痛を癒す最良の薬であり、少なくとも短期的には、現実がもたらす苦痛を一時的に忘れさせてくれる最も手っ取り早い手段となります。

誘惑的

SO7の対人戦略は、非常に繊細でありながら、同時に隠された側面を持っています。彼らの対人関係の在り方は、誘惑と引きこもりという二つのメカニズムを通じて、根本的な両価性―すなわち相反する感情や態度を同時に抱く状態―の表れとして定義できます。

他者の近くにいると、SO7の誘惑的な駆け引きは一層強くなります。彼らは、若々しさ、陽気さ、そして茶目っ気といった自らの最高の特質を発揮します。まるで他者に仕えているかのように振る舞い、相手の気分を明るくし、心地よさや幸福感をもたらすことで、忘れがたい瞬間を作り出し、ユーモアや安心感を「錨」として相手とのつながりを築こうとします。驚かせ、魅了し、楽しませることが不可欠で、直接迫るのではなく、間接的に相手の心を捉えるため、あらゆる手段を駆使します。さらに、あえて無関心を装いながら、相手が自発的に近づいてくるのを待つという戦略をとるのです。これは決して直線的なアプローチではなく、表面上は相手を選んでいるように見せず、実際には巧妙に選びながら、ささいな機会を逃さず段階的に近づいていくものです。

一方で、他者からの拒絶はSO7にとって極めて深刻な問題です。内面では、「見捨てられること」があらゆる出会いを脅かす大きな不安となっています。彼らの欲求と拒絶される際の身体的な感覚が混ざり合い、その結果、欲望を率直に表現すること自体が痛みを伴う危険な行為と感じられるのです。過去の苦痛を再び体験する恐れが、回避的な思考や行動の根底にあり、「自分は一人で十分にやっていける」「誰にも頼る必要はない」という信念が、次第に自己中心的な内面世界へと結晶化していきます。

この点において、SO7はタイプ2の「偽りの豊かさ」と非常に類似しています。両者とも、自分自身を壮大で価値ある存在だと感じ、そのイメージに沿った行動を取ります。ただし、タイプ2は感情面で非常に敏感で、相手のニーズを先読みして満たすことで「偉大な誘惑者」として評価されます。一方、SO7の誘惑は、主に言葉や知的な魅力に依存しており、エネルギーで直接引き寄せるのではなく、巧みな表現を通して相手の興味を引き出すのが特徴です。

また、SO7にとって、他者との接触や関係の深化は大きなリスクを伴います。たとえ表面的な交流であっても、社会的接触は彼の「特別な自己イメージ」に亀裂を生じさせる可能性があるため、接触はあくまで一瞬のゲーム―すなわち、自分の理想像を他者に確認してもらうための短い演技―に過ぎません。より深い関係は、その自己イメージが崩れるリスクを孕むため、むしろ孤立している方が安全で、現実の煩わしさに邪魔されることなく、自身の理想を保つことができるのです。

このような防衛機制は、スキゾイド的な傾向と共通しています。SO7は、誰かに気を遣ったり尽くしたりする必要がない「自分だけの洞窟」にこもることで、初めてリラックスできるのです。世界と関わることは、神経症的な方法で接しているため非常に消耗的であり、一方では理想の自己イメージを確認するために誘惑を用い、もう一方では他者に尽くすために自分の欲求を強迫的に後回しにします。その結果、心身ともに疲弊し、失望感が募った末には、すべてを放棄してしまうのです。

社交の場とプライベートの空間では、SO7の振る舞いは大きく異なります。社会的な場面では、親しみやすさや愛想の良さを前面に出し、周囲に好印象を与えようとします。しかし、プライベートでは、社会で消耗したエネルギーを回復することが最優先となり、しばしば幼児退行的な状態に陥ります。自分の感情をうまくコントロールできず、内心では「誰かに世話をしてほしい」「何も考えずにただ楽しみたい」という強い欲求を抱くようになります。こうした一人の時間は、対人関係に費やしたエネルギーを補充するための避難所であり、孤立しながら心身を休め、社会からのプレッシャーを逃れるための安全な空間となっているのです。

見捨てる

時には、SO7は、すでに自己愛的な満足―自分が壮大で価値ある存在だと実感した瞬間―を得た後、または関係の中で本当の自分を出せずに疲弊したときに、自然と距離を置くようになります。そして、感情的な苦痛を与える手段として、意図的に関係を断つ場合もあります。

また、SO7の幼少期には、実際に(あるいは主観的な感覚として)、親から見捨てられたという痛みの体験がありました。これにより、SO7は、何らかの損害や傷を受けたと感じたとき、復讐の手段として相手を見捨てることで、自己防衛を試みます。この「見捨てる」という行為は、彼らにとって最も攻撃的な手段であり、関係の中で抑え込まれた感情や言い出せなかった思いが、一気に爆発する形で現れます。しばしば予期せぬタイミングで、受動的攻撃的な方法を通じて相手に衝撃を与えるのです。

弁舌巧みな人物

SO7は、その言葉の使い方において非常に際立った魅力を発揮します。彼らは、まるでペテン師や詐欺師のように、優れた言語的知性を駆使して他者を惹きつけます。語り部や言葉の曲芸師として、皮肉や比喩を巧みに用いながら、知的な概念を自在に操ることで、聴衆の心に印象深い影響を与えます。

クラウディオ・ナランホ

Naranjo, C. (2012). "27 personajes en busca del ser"

SO7:犠牲

SO7は、「カウンタータイプ[1]」のタイプ7です。そのためSO7の「暴食」の情欲は、一見するとわかりにくいです。なぜなら、彼らはそれを隠すために、利他的な行動を取っているからです。こうした行動は、自己の快楽や利益への欲望を感じることに対する罪悪感から、自分を浄化しようとする試みでもあります。自分自身や世界に対する理想を追い求めることで、彼らはその欲望を抑え込もうとするのです。SO7は、より良い自分と、痛みや対立のない理想の世界を目指すために、暴食を犠牲にします。

SO7は、表面上では他人を利用しようとはせず、欲望に縛られることを避けようとします。彼らは非常に純粋な人々で、時にはその純粋さが過剰であることもあります。例えば、食生活や世界の飢餓問題に強い関心を持つ人もいます。ニューエイジ(1970年代以降に広まった精神世界やスピリチュアルな価値観を重視する文化的潮流)の流行は、こうしたSO7の価値観を広める場となっています。

彼らは無意識のうちに自分の内に「貪り食う豚」を隠していることに気づき、こう決意したかのようです。「私は、欲望から距離を置いた豚として自分を定義する」と。これがSO7の特徴です。

オスカー・イチャーソがSO7を表すために用いた言葉は「犠牲」です。ただし、これは単なる犠牲ではなく、「暴食の犠牲」であり、理想を優先して欲望を抑え込む姿勢を指します。しかし、ここに彼らの欺瞞があります。実際には、自分の犠牲が認められ、他者から「とても良い人だ」と評価されることを強く望んでいます

SO7の例として妥当な人物といえば、キリスト教世界で深く崇敬される真の聖人、アッシジの聖フランチェスコがそうでしょう。彼はまさにSO7の典型例といえます

聖フランチェスコは、ウィリアム・ブレイクの「もし狂気を生き、それに従えば、やがて智慧に変わる」という助言に従いました。すなわち、狂気や神経症的な傾向を持つ人が、その内面の狂気を全面的に生き切るならば、賢者へと変わるという考え方です。聖フランチェスコは、これを一つの精神的成長の道と捉えたのです。

このようにして聖フランチェスコは、「良い人間になりたい」という強い願いから、エニアグラム・タイプ7の特徴―快楽や自己中心的な衝動―を克服するため、変容に必要なすべての行動を実践しました。具体的には、あえて惨めな生活を選び、神殿の修復のために石を運び、さらには当時忌避されていたハンセン病患者にまでキスをするなど、自己犠牲の行動に走ったのです。これ以上の試練は考えにくいほどです。彼は、自己の「タイプ7的」な性質から脱却するために、あらゆる「正しい行動」を貫いたのです。しかし、聖フランチェスコの若かりし頃の逸話には、SO7本来の姿がよく表れています。ある日、彼と仲間の修道士たちは、雨をしのぐために簡易な天幕を建てました。ところが、雨が降り始めたとき、彼らが天幕に避難しようとすると、すでにその場所には一人の農夫とその牛が居合わせました。そこで聖フランチェスコは、自分たちの快適さを犠牲して、寛大にも農夫と牛に避難場所を譲るという行動を取りました

ここから示唆されるのは、精神的・霊的な健康が「隣人の求めるものを愛する」ことに深く関係しているという点です。しかし、自己を犠牲にしすぎて他者に尽くすあまり、「あまりにも良い人になろうとする」危険性もあります。これは、修道女などで典型的に見られる傾向ですが、一部のSO7もまた、社会や規範に沿った「善良さ」を演じようとするあまり、他者からの称賛を求める、いわゆる「拍手喝采を狙った善行」に陥ってしまうのです。

現代の人々は、自分たちには牛よりも多くの権利があると考える誘惑に駆られるかもしれませんが、その見方自体が誤っている可能性もあります。ディープエコロジーが示唆するように、私たちは生命全体の相互関係を見直す必要があるのです。ところで、そもそも「善良さ」の限界、はどこにあるのでしょうか。一体どこまでが適切な善行だといえることなのでしょうか。SO7に典型的なのは、他者からの称賛―つまり拍手喝采―を求める「善行」です。これは、自己犠牲を通して理想に近づこうとするあまり、過剰な善良さを演じてしまう傾向を如実に示しています。

サンドラ・マイトリ

Maitri, S. (2001). "The Spiritual Dimension of the Enneagram"

SO7:犠牲

SO7の特徴は、社会的理想を実現するために、個人の自由や自己の願望をあえて放棄する点にあります。彼らは、他者に対して深い義務感を抱き、「果たすべき責任」を遂行するためには自己犠牲が必要だと考えます。その自己犠牲は、彼らが思い描く理想の未来―すなわち、現在は十分に得られていない「帰属意識」「社会的承認」「社会的地位」―を実現するためのものです。こうした未来を手に入れるため、彼らは計画を立て、あらゆる行動に移します。また、SO7における「暴食」という情念は、物質的な食欲ではなく、社会的な気楽さや安心感への飢えとして現れます。彼らは、安心感を得るために必要だと信じるもの―すなわち、人的ネットワークや影響力、社会的成功など―を執拗に求めるのです。さらに、オスカー・イチャーソ(リリーとハートの研究による)によれば、このサブタイプは「社会的制約」と表現され、「社会活動の枠組みをあらかじめ決めてしまう」という特徴があります。これは、SO7が自らの社会的不安を解消するために、あらかじめ自分がどのように社会的関与を行うかを決め、自分の振る舞いを制限する傾向を示しています。このように、SO7には社会的理想と安心感を追求するあまり、自己犠牲と計画的な行動によって自分自身の社会的役割を厳格に定義しようとする性質が見られます。

ベアトリス・チェスナット

タイプ7(ソーシャル)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Enneagram Guide to Waking Up"

SO7は、他者に対して深い気配りを見せ、他者を搾取することなく自己犠牲的に行動しようとします。彼らは、自己の利益を追求することなく、他人のために行動することを重視します。タイプ7の基本的な情念である「暴食」—すなわち「もっと楽しみたい」「満たされたい」という欲求—は、SO7では「善良でありたい」「純粋でありたい」という願望に変わります。そのため、SO7は社会の苦しみを減らす活動に強く惹かれ、他者の痛みを和らげる仕事や社会貢献に積極的に取り組みます。世界のより良い未来を信じ、ユートピア的なビジョンを描くことに情熱を注ぐタイプです。

もしこれがあなたのサブタイプなら、あなたは、自分を「善良で謙虚で、自己犠牲的な人物」として表現することが多いかもしれません。しかし、無意識のうちに「自分は他者より道徳的に優れている」と感じていることはないでしょうか。自分が他者よりも利他的で、純粋だと信じることで、自分の価値を確かめている可能性もあります。あなたは他者の痛みを和らげるために熱心に活動していますが、その動機が必ずしも純粋な利他主義から来ているとは限りません。もしかしたら、あなたの行動は、自分自身の痛みから目を背けるための手段であったり、「善良でありたい」「利己的に思われたくない」という欲求によって駆動されているかもしれません。時には、他者を過剰に助けようとすることもありますが、その動機は必ずしも無私の心からではなく、「痛みを避けたい」「善良でありたい(または、善人であると見られたい)」という気持ちから来ていることもあります。成長するためには、他者への奉仕を少し控え、自分自身のニーズや欲求にも目を向け、自己犠牲的な考え方から自由になることが重要です。

タイプ7(ソーシャル)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Complete Enneagram"

SO7は、タイプ7の基本的な情念である「暴食」に反する方向に向かう「カウンタータイプ」です。彼らは他者への奉仕を意識的に行い、自己の利益を追求しないよう心掛けています。自分の欲求を抑えて他者を支えることに情熱を注ぎ、「善良でありたい」「純粋でありたい」という強い願望を持っています。彼らは、禁欲的な生き方を理想とし、少ないもので満足することを美徳とする傾向があります。また、理想主義的で、情熱を持って社会の未来を語り、自分自身が世界にとって価値ある存在だと感じることを重要視しています

タイプ7(ソーシャル)の説明(2021)

Chestnut, B. (2021). "The Complete Enneagram"

SO7:「自己犠牲」—カウンタータイプ

SO7は、道徳的に純粋であることを強く意識するタイプです。このサブタイプは、タイプ7の「カウンタータイプ(反タイプ)」であり、タイプ7の基本的な特徴である「暴食」とは逆の方向に生きようとします。SO7は他者を利用することを避け、善良であることを心がけます。ナランホは、SO7が自分の中にある「暴食」を感じ取り、それに逆らって生きると説明しています。

もし「暴食」が「もっと欲しい」「できるだけ多くのものを得たい」という願望であり、状況を最大限に活用しようとする欲求であれば、そこには他者を利用する側面が含まれています。しかし、SO7はこの衝動を抑え、控えめであることを重視します。過度にチャンスを追い求めたり、自分の利益を優先したりすることを避け、道徳的に正しく行動しようとします

SO7にとっての「暴食」は表に出にくく、わかりにくい形で現れます。彼らは自分の欲望を直接満たすのではなく、利他的な行動を通じて間接的に満たそうとします。他者のために尽くすことで、快楽や自己利益を求めていることへの罪悪感を和らげ、「善良な人間である」という意識を保とうとするのです。

SO7は、自分の欲求や利益を優先することを避け、その代わりに「理想的な自分」や「理想の世界」を追い求めます。彼らは、自らの「暴食」を抑えることで「より良い人間になりたい」と考え、痛みや争いのない世界を目指します。ナランホは、SO7が理想のために自分の欲求を後回しにする傾向があると指摘しています。

SO7は、「暴食」に抗おうとするあまり、極端に「純粋であろう」とすることがあります。その結果、食事や健康、精神面に強いこだわりを持つことが少なくありません。純粋さを求める彼らの努力は、食生活、健康、精神的な面にまで広がることがあります。興味深いことに、ナランホによれば、SO7にはヴィーガン(完全菜食主義)が多いそうです。

SO7は、「純粋さ」と「反・暴食」を追求する中で、一種の禁欲的な理想を表現します。これは、エニアグラムのタイプ5に近い理想でもあります。彼らは「少ないもので満足すること」を美徳として捉え、自己抑制を道徳的に価値あるものと考えます。自分の善良さを証明するために、他者にはより多くを与え、自分は控えめに振る舞う傾向があります。例えば、本当はケーキの一番大きな一切れが欲しいと思っていても、その衝動に逆らい、最も小さな一切れを選んで他の人に譲ります

また、SO7は集団や家族の中で多くの責任を引き受けることがよくあります。これにより、彼らは「暴食」を他者の利益のために犠牲にしていることを表現しています。自分の欲求を後回しにすることで、「奉仕の理想」を実現しようとする姿勢が現れます。このサブタイプの名称である「自己犠牲」が示すように、彼らは他者のために奉仕し、貢献したいという強い意志を持っています。

一見、純粋で無私に見えるこの性格ですが、彼らのエゴ(自我)はどこで満たされているのでしょうか。SO7の本音には、「自分の犠牲を認めてもらいたい」という強い欲求があります。彼らは、自分がどれだけ他者のために尽くしているかを評価されることに対して、隠れた「暴食」を抱えています。愛や承認に対する飢えは尽きることがなく、この飢えは満たされることなく続くことがあります。そのため、自己犠牲を通じて、欠点や弱点を隠し、認められたり、愛されることを求めます。本当は自分の欲求や衝動に従いたいと感じるものの、それを正当化することに罪悪感を抱きがちです。このため、犠牲や奉仕は、称賛や承認を得るための手段になっているのです。

SO7は、他者に感謝されることや認められることを望むだけでなく、「良い人」と思われること、対立を避けること、さらには相手に「恩」を感じさせることも意識しています。しかし、これらの動機が深い人間関係に結びつくとは限りません。むしろ、良い印象を与え、争いを避け、相手に恩を着せることで関係を築こうとするため、結果として関係が表面的になりがちです。

また、SO7は「自分の犠牲を認めてもらいたい」という気持ちから、「助ける人」の役割を進んで引き受けます。他者を支えたり、苦しみを和らげたりすることに熱心ですが、実は自分自身の痛みには向き合いたくありません。そのため、他者を助けることが、自分の内なる苦しみを外に投影し、安全な距離からそれを和らげる手段となることもあります。彼らは常に「誰かのために生きる」姿勢をとり、プロジェクトを管理したり、人々を動かしたりすることに長けています。情熱的で寛大な性格を持ち、深い献身を見せながら支援やサービスを提供します。

SO7は、利己的であることに対して強い内面的な抵抗を感じ、「良い子」や「良い人」と見られたいと願っています。彼らは自分の自己利益を「善い行い」のように見せかけることがあり、それに対して抑圧された罪悪感を抱えています。そして、自分が認めたくない「暴食」についての罪悪感を他人に投影し、他人を「十分に献身的ではない」または「努力していない」と批判することがあります。また、SO7は、自分が本当に無私の人間なのか、それとも自己利益のために行動しているのかがわからず、自己を信じきれないこともあります。そのため、彼らは自分の深層にある動機を「利己的」だと感じ、否定的に捉えることがあります。

SO7は非常に理想主義的ですが、その理想主義は「幻想」「善意」「独創性」が混ざり合ったもので、それが彼らの行動を促す「知的な刺激剤」のように作用します。彼らは世界をより良くするために精力的に動きますが、実際には「理想を持つこと」自体が自分を動かすための手段になっているのです。また、利他主義や献身、自己犠牲に力を注ぐことで、「自分は社会に受け入れられる」と感じようとします。彼らは自分の行動を正当化するために「合理化」という心理的な防衛メカニズムを使うことがよくあります。理想主義はしばしば、合理化されたイデオロギーに基づいています。そのため、もし信念が間違っていることがわかっても、彼らは新しい理屈を見つけ、それを「成長」として説明しようとします。このような特性を持つため、彼らは理想を失うことに対して強い不安を抱えています。理想を失うことで、無気力になり、空虚感を感じることを恐れているのです。

理想主義を通じて自分を動機づけることが特徴的で、時には「自分には果たすべき使命がある」と感じることもあります。まるで「救世主」として人々を助ける役割を果たしたいと思うことがあるかもしれません。しかし、時には自分が「世間知らず」や「非現実的」ではないかと批判的に振り返ることもあります。人々に対して過度な期待を抱いてしまうこともあるのです。SO7には、若者や思春期に見られるような特性があり、刺激的なことを好み、時には物事を単純化しすぎる傾向があります。難しい課題に直面すると、やる気をなくし、怠けてしまうことも少なくありません。また、自己中心的な部分や、快適さを求めすぎる面にも気づかないことが多いです。

ナランホは、SO7の性格を支える三つの柱として「熱意」「理想主義」「社交的な性格」を挙げています。彼らは「ヴィジョナリー(未来を思い描く人)」として、より良く、より自由で、健康的、平和な世界を想像します。ニューエイジ(1970年代以降に広まった精神世界やスピリチュアルな価値観を重視する文化的潮流)がSO7の特徴を反映していると言われるように、彼らは理想主義的な未来を追い求め、時にその熱意が過剰になることがあります。SO7は、自分のビジョンに対して非常に熱心で、その熱意を使って他者を巻き込むことがよくあります。外見上は非常に明るく、楽しげに見えますが、対立や不協和音を避ける傾向があります。

人間関係において、SO7は「相手を傷つけたくない」という強い気持ちと、「深い関係を築くことへの不安」の間で悩むことがあります。彼らは「純粋でありたい」「理想を貫きたい」という思いから、純粋で完璧な恋愛を求めがちです。しかし、その結果、無意識のうちに「自分のほうがパートナーより優れている」「より純粋である」と考え、パートナーにも理想に向かって成長することを期待してしまいます。また、親密な関係によって生まれる深い感情や複雑な葛藤に対処するのが難しいと感じることもあります。

SO7は、一見、タイプ2に似ていることがあります。彼らは熱意にあふれ、明るく、そして「人を助けたい」という強い思いを持っています。しかし、タイプ2が他者中心に動き、自分の欲求を後回しにしがちな一方で、SO7は自分自身の基準を大切にしています。そのため、他者のために尽力しても、自分が何を必要としているのかを理解していることが多いです。SO7の「助けたい」という気持ちは、単なる承認欲求からではなく、「自分の利益よりも高い目的を優先すべきだ」という考えから来ています。だからこそ、社会や倫理のために行動しつつも、自分の欲求を完全に犠牲にすることなく、それを自覚しています。また、彼らは非常に純粋で理想を追い求めるため、この点ではタイプ1にも似ています。しかし、SO7が求める「純粋さ」や「完璧さ」は、自分が拍手喝采されるための善であり、社会的評価や一般的な基準に基づいたものです。一方、タイプ1は自分の中の「正しさ」を追求し、内面的な信念に従っています。このように、両者には根本的な違いがあります。

ラスティ(SO7)の証言:

タイプ7について最も見落とされがち点は、私たち(タイプ7)が「恐怖」に駆り立てられ、選択肢をたくさん持とうとする背景には、「安全」を得るという目的があるという点です。私たちは表面上、必死な様子を見せないことに慣れているため、実際にはどれほど焦っていても、それが周りに伝わることは少ないのです。SO7である私にとって、「犠牲を払うこと」はあまり問題ではありません。無限に広がる選択肢の中では、どんなに大切なものでも、それに代わる別の「宝物」が見つかりさえするのであれば、簡単に今あるものを手放すことができるからです。どんな目的や取り組みでも、私たちは柔軟に「手放す」という行動をとることができます。表向きは高尚な理由のためでも、心の中では自分の満足を得るために行動していることもあります。

私は、私が掲げる理想主義と、それから「貪欲な人ではなく、善良な人として見られたい」という欲求から、私はこれまで多くの慈善団体に参加してきました。グループに属することで得られる安全感や安心感が心地よく、私はグループの中での自分を大切にしているのです。しかし、私が参加するのは、完全に自分が所属しているとは感じられないグループばかりです。たとえば、巡回劇団に情熱を注いでいた時期もありました。でも、最終的にそのグループを去ることにした理由は、単純に「独りで演じることが嫌いだった」からです。私はその「安全な場所」を捨て、また別の何かを求めに行きました。私たちSO7は、タイプ2に似ているように見えることもあります。しかし、私がグループを去るきっかけは常に「ただ相手に合わせてうなずき続けるのをやめたい」という強い衝動と、「自分自身を支える軸となるものを持っていない」という事実からでした。たとえその結果として周囲に混乱を招いてしまったとしても、あるいは私が去った後に何の痕跡も残らず、まるで静かな池のように何も変わらないようなるのだとしても、それでも私は新しい選択をし続けてきました。

タイプ4・タイプ7な自己愛(ナルシシズム)を受け入れるのは難しく、私はずっとためらっていました。でも、あるとき気づいたのです。鏡に映る自分を見て、善良さや美徳、美しさを過剰に意識するのも、邪悪さや不完全さを過剰に意識するのも、どちらも結局は「自分自身を考えすぎる」という同じ落とし穴にはまるのだと。それ以来、自分の意識を外へ向けようと、さまざまな活動に参加し、また離れることを繰り返してきました。その結果、成功を味わうこともあれば、片隅で孤独を感じることもありました。数えきれないほどのプロジェクトや計画、そして逃げ道を作る中で、一見無関係に見えるものの間に共通点を見出し、それらを独自の視点でつなぎ合わせる力を身につけました。ただし、私の発想はいつも思いがけない方向から生まれます。例えば、伐採キャンプで弦楽器を持っている唯一の人間だったり、ワイオミングから出てきたばかりなのにニューヨークのマディソン・アベニューにある建築デザインのショールームを管理していたり、長老派教会の聖歌隊にいるクエーカー(長老派教会とは別の一派)だったり、同性愛者コーラスの中で唯一の異性愛者だったり。私はいつも、少し場違いな存在としてそこにいます。私はこっそり横の入り口から入り込み、場をかき回し、大きなことから小さなことまで何らかの貢献をして、「美徳ポイント」をいくつか集めたら、「さて、そろそろ次の場所へ行く時間だ」と思うのです。

悪徳から美徳へ至る道においてSO7が取り組まなければならない具体的な課題

SO7は、自分の行動の背後にある動機をより意識することで、「暴食」から「節度」へと進んでいきます。つまり、物質的・精神的な快楽を求め続ける衝動を抑え、バランスを取る力を養うことができます。もしあなたがSO7なら、「犠牲的な行動や他者を助けることで、良い人だと認められたい」という気持ちに気づくことを意識してみてください。ただし、その気持ちを「利己的だ」「自己中心的だ」と否定する必要はありません。まずは、そのまま受け止めてみましょう。また、自分の中に「暴食」と「それを抑えようとする心」がどのようにせめぎ合っているのかを観察し、その背後にある恐れや欲求を探ってみてください。何がその心理的な動きを生み出しているのか、率直に見つめることが大切です。自分が気づかないうちに、特定の感情や動機が行動を突き動かしていることがあります。どんな欲求や感情も否定せず、大切なものとして受け入れましょう。もし「自己中心的な動機があるかもしれない」と気づいたとしても、それを責めるのではなく、ただ認めることが大切です。さらに、「他者のために行動すること」と「自分の満足のために行動すること」が混ざっていないかを考えてみてください。本当に相手のためなのか、それとも自分の満足のためなのかを冷静に見極めることが重要です。たとえ自己利益が含まれていたとしても、それ自体は悪いことではありません。大切なのは、自分の動機に正直になりつつ、それを「善い」とか「悪い」というように決めつけないことです。「良い人でなくなってしまうのでは」という恐れが、本当の気持ちを見つめる妨げにならないようにしましょう。その恐れを振り払おうとするのではなく、「そう感じている自分がいる」ということを認めるだけで十分です。また、自分の熱意やエネルギーを使って、無意識のうちに周囲を動かそうとしていないか、振り返ってみてください。理想を追い求めることで、現実の問題や不安から目をそらしていないでしょうか?理想や集団への奉仕にしがみつくことで、内面の空虚感を埋めようとしていないか、自問してみるのも大切です。もし「自分には価値がないのでは」「本当に善い人間なのか」といった不安や恐れがあるなら、それを無理に消そうとせず、ただ感じることを許してあげましょう。恐れがあること自体を受け入れることが成長への第一歩です。あなたの善意には確かに価値があります。その価値を認めつつ、自分の意図や限界を厳しく裁くのではなく、優しさをもって受け止めてみてください。

ハイキ

The Haiki Enneagram Website

SO7:自らの「暴食」を犠牲にする者

SO7は壮大な理想を抱きます。他のタイプ7のサブタイプとは異なり、彼らは七つの大罪の一つである「暴食」——快楽や刺激を際限なく求める強い欲望——を、「自己犠牲」へと置き換えます。ここでいう自己犠牲とは、単なる自己否定や苦行ではなく、自らの欲求を抑えて理想を追求する姿勢を指します。彼らは、苦痛や対立のない世界を夢見ています。そして、自分の欲望を超越し、世俗的な欲求を持たない「天使のような存在」になれると信じています。実際、ニューエイジ(1970年代以降に広まった精神世界やスピリチュアルな価値観を重視する文化的潮流)には、SO7のこうした純粋さが色濃く表れていました。彼らは非常にピュアで、人生の明るい側面を見ようとする傾向があります。SO7の自己犠牲は、タイプ9やタイプ4に見られるマゾヒズムとは異なります。彼らが犠牲にするのは、自らの「暴食」の情欲です。彼らは強い欲求を感じていますが、それを抑え込み、理想化された自己像のために犠牲にします。そして、その結果として周囲から「聖人」のように見られるなら、それは素晴らしいことだと感じます。過度に楽観的な一面はあるものの、SO7は「自分よりも他者を愛したい」と強く願っています。しかし、その「善良さ」には、単なる利他精神を超えて、「良い人でありたい」「認められたい」という強い欲求が隠れています。そのため、彼らの善意には、心理的な偏りや、周囲からの評価を求める要素が含まれることが少なくありません。

SO7と話していると、「優しすぎて世間知らずに見える」と感じることがあります。タイプ7の中でも、SO7とSP7は非常に対照的な存在です。なぜならSO7が極端な純真さを持つ一方で、SP7は計算高く、したたかさを前面に出すためです

聖フランシスコは、心理学者クラウディオ・ナランホが「SO7の理想的な姿」として挙げた人物です。彼の生き方は、自己犠牲と他者への奉仕というSO7の特徴を体現していました。

SO7は、自分を社会的な大義のために捧げるべきだと感じています。彼らはスピリチュアリティへの明確な傾向を持ち、世俗的なことに関心を持たなくなるため、典型的なタイプ7とは異なって見えます。まるでこの世界だけでは満足できず、もっと偉大な何かとつながりたいと願っているかのようです。

このサブタイプの人々、特に男性には、ひたすら喋り続けるものの、内容はあまり重要でないことが多い、という特徴があります。まるで言葉が止めどなくあふれ出すかのようです。

外見上、彼らは最も「タイプ7らしくないタイプ7」とも言える存在です。むしろ「反・タイプ7」と表現できるほどで、タイプ5と間違えられることさえあります。一方で、特に女性の場合は、自分をタイプ2やタイプ9だと思い込むことも少なくありません

彼らは、現実から一歩引いたような感覚で生きており、ときどき一人になりたがります。しかし、根底には常に「痛みや苦しみへの恐れ」があり、その恐れから逃れるために、大きな理想を掲げたり、壮大な目標を追い求めたりします。ただし、それは「今ここ」に真正面から向き合わなくて済む場合に限られます。彼らの目的は、周囲に「自分は善良な人間だ」と思わせることであり、その理想像にそぐわない本当の自分を隠し続けることが最も重要なのです。自分の行動や動機を深く理解するのは難しく、たとえ自分がSO7だと認識しても、「自分は本当に善良で純粋だ」と信じ続ける傾向があります。その「善良さ」は巧みに演じられており、簡単には見破れません。エニアグラムの「悪い子」であるタイプ8とは対照的に、SO7は「良い子」を体現しているのです。

それでも彼らを救う道は、理想の「雲の上」から降りてきて、もっと人間らしく生きることです。世界を救いたいという願いは変わらないかもしれませんが、まずは自分自身を救うことが何よりも大切です。他人の模範となるのは悪いことではありませんが、それが行き過ぎると自分を見失い、苦しめることになります。だからこそ、彼らは「本当の自分」を受け入れ、少しくらい型破りであることを許し、自分の本当の欲求や感情と向き合うことを学ぶべきです。そうすることで、頭の中の雑念が静まり、心からのつながりを感じられるようになるでしょう。

カルメン・デュラン、アントニオ・カタラン

Durán, C. and Catalán, A. (2009). "Los engaños del carácter y sus antídotos"

SO7:犠牲⇒熱狂

このサブタイプは一般的に「犠牲」と呼ばれていますが、私たちの考えでは、この「犠牲」は動機そのものではなく、本能的な傾向として説明されるべきものです。本能とは、本来、行動の原動力となる衝動や方向性を示すものであり、このサブタイプにおいては「熱狂」がその中心的な要素となっています。SO7が「犠牲」や「努力」を主観的に感じるのは、熱狂できなくなったとき、つまり幻想が崩れ、興奮を失い、意志と規律だけで物事を続けなければならない状況に追い込まれたときです。彼らにとって、熱狂とは自然なエネルギーの源であり、それがあれば時に躁的なほどの情熱をもって努力することができます。しかし、ひとたび関心を失うと、その努力を続けることはできません。実際のところ、このサブタイプには「熱狂と無関係な努力」を避ける傾向があります。そのため、希望を失った後は、それまで積み上げてきたものさえも価値のないものとして扱い、台無しにしてしまうのです。彼らが感じる「犠牲」や「苦しみ」は、皮肉にも「努力せずに成果を得られる幸福な世界」という幻想を守ろうとすることから生じます。この幻想にとらわれているため、彼らは現実の豊かさをありのままに受け取ることができず、ひたすら未来に希望を求め、今この瞬間を見失ってしまいます。クラウディオ・ナランホも「犠牲」という言葉は適切ではないと考え、代わりに「ナルシシズム」を提案しました。ただし、「ナルシシズム」という言葉も一般的には広い意味で使われるため、ここでは限定的な意味で用いる必要があります。つまり、彼らの「犠牲」は自己愛や自尊心を支えるためのものであり、自らの情念に膨大なエネルギーを注ぎ込むことで、自己評価を維持しようとしているのです。

ラ・ミラダ・リブレ

Psychology of Ennea-types Volumes by Claudio Naranjo Interpreted by La Mirada Libre

SO7:犠牲

このサブタイプは「反情念(つまりタイプ7の暴食の情念へのカウンター)的」な特徴を持っています。というのも、自らの「暴食」――すなわち、際限のない快楽への欲求――を、他者のために「自発的に苦しむ」ことによって巧妙に隠し、正当化するからです。そのため、「犠牲」と呼ばれます。彼らの享楽的な性質は、他者への奉仕や献身として表れることがあります。また、攻撃的になることを避ける、平和を重んじる、感情の管理や他者との接触が難しい、常に楽しげで問題のない人物を演じる、虚偽と誠実さが入り混じる――こうした形でも現れます。

ただし、タイプ9やタイプ4の一部のサブタイプと比べると、SO7の「犠牲」はまだ表面的なものであり、その技術においては初心者の域を出ない点には注意が必要です。

SO7は幼少期に、「最大限の快楽こそが人生で最も価値のあるものだ」と認識しました。そして成人後もその価値観を保持し、「特別な存在」であり続けたいと願っています。彼らが理想とするのは、自由奔放なボヘミアンや、大胆な芸術家のような生き方です。

全てのタイプ7と同様に反逆的な気質を持つ一方で、彼らは「特別な存在」になるために、知性を父権的な体制に差し出してしまうことがあります。批判的な視点は持っているものの、それを具体的な行動に落とし込むことができず、「聖性への憧れ」によって別の世界や次元で権威を超越しようとします。そのため、彼らは「スピリチュアル・エゴ」――つまり、精神的成長を求める中で、無意識のうちに自らを他者より優れた存在とみなすこと――に陥りやすい傾向があります。

SO7の解決策は、権威から身を隠し、ひそかに行動することです。まるでエニアグラムにおけるロビン・フッドのような存在です!ソーシャルタイプであるSO7は、理想的な自己イメージを確認したいがために人を惹きつけますが、自分の本当の欲求を後回しにして他者への奉仕を優先します。その結果、疲れ果てて引きこもることがあり、スキゾイド的な傾向が見られますSO7は社会との短い接触を好みます。それは、自分が「特別な存在」であるという感覚を取り戻すためですが、長く関わることで直面する現実の不快感から逃れるためでもあります。

恋愛において、彼らは深い孤独を抱えています。表面的には従順に振る舞いますが、それはあくまで戦略的なもので、対立を避けるための手段です。その内側では、反逆心を秘めています。

興味深いことに、ソーシャルタイプの男性も女性も、ジェンダーに関する美的・行動的な固定観念に縛られることはありません。彼らはアンドロジナス(中性的)な傾向を持ちます。これは、SO7の女性では男性的な特徴が強調され、SO7の男性では女性的な特徴が際立つことによるものです。

SO7は、自分の欲望に制限をかけられない一方で、理想の自分と現実の自分のギャップに悩まされることなく、バランスを保っています。自分の欲求を後回しにすることで、内面的に優越感を感じているのです。まるで「良い子で協調的な少年」に変装した大人のような人で、表面上は良い人で協調的な振りをしているように見えるかもしれませんが、その裏では自分の欲望を抑えています。

3つのサブタイプの中で、彼らは最も知性に偏ったタイプです。

ドン・リソ、ラス・ハドソン

Don Riso and Russ Hudson (1999),The Wisdom of the Enneagram: The Complete Guide to Psychological and Spiritual Growth for the Nine Personality Types

取り残される不安。SO7は、健全度が平均的な段階では、自分と似た関心や情熱を持つ友人や「アドバイザー」と呼ばれる人々のグループを作ることが多いです。これらの仲間は、新しい可能性についての情報を提供し、SO7が求める刺激的で多様な経験を与えてくれます。SO7は理想主義的な一面があり、社会的な交流や活動に積極的に参加し、そこから興奮を感じることを好みます。しかし、他の人と一緒にプロジェクトに取り組む際、ペースが遅いことに苛立ちを覚え、進行が妨げられているように感じることがあります。そうした場合、SO7は社会的責任を重荷に感じ、「約束を守りたい」という気持ちと、「もっと自由にやりたい」という気持ちの間で葛藤します。さらに、SO7は常に「もっと面白いことがあるのではないか」と考え、次に進むべき刺激的な環境を探し続けます(例えば、「この新年の集まりは悪くないけれど、テッドのパーティーは真夜中過ぎからもっと盛り上がるだろう!」)。また、SO7は権威に対して嫌悪感を抱くことが多いです。彼らは権威を「恣意的で不必要なもの」と見なし、社会のルールや制約に反発する傾向があります。

健全度が低いSO7は、自分のエネルギーやリソースをあちこちに分散させ、物事に中途半端に関与する傾向があります。彼らは、スケジュール帳を埋めることに熱心ですが、同時に「予備の予定」を仮の予定として入れておき、特定の選択肢に縛られないようにします。多くのことに手を出しますが、どれにも本気で取り組めず、気が散りがちです。彼らは社交的で魅力的、また人を惹きつける力を持っていますが、すぐに「束縛されている」と感じ、不安を抱いたり、より魅力的な社交の機会が現れたりすると、予告なしに約束やデートをキャンセルすることがあります。

不健全な段階のSO7は、自分のエネルギーや才能を、無限に続く会議や社交の集まり、「計画セッション」に浪費しますが、それらを最終的な結論に導くことはほとんどありません。未完了の事柄や傷ついた人々を残しながら、どこにも長く留まることなく去っていきます。彼ら自身が落ち着かず、その影響で周囲の人々も不安定になります。不安から逃れようとするあまり、無責任な行動に走り、最終的に潜在的に危険で破壊的な「社交シーン」に巻き込まれてしまうこともあります。


出典:
本記事はPDB(Pdb: The Personality Database)様のwikiであるhttps://wiki.personality-database.com/様の上記リンク先ページを日本語へと翻訳し、訳者判断でアンダーラインを引いたものです。CC BY-NC-SA 3.0を継承しています。


訳注

  1. ^ カウンタータイプ:3種類の生得本能のうち、各タイプの典型的な記述に当てはまらないサブタイプ。カウンタータイプは次の通り:
    SX1(T4やT8との誤認が多い)
    SP2(T4やT6との誤認が多い)
    SP3(T1との誤認が多い)
    SP4(T1, T3, SX6, T7との誤認が多い)
    SX5(T4との誤認が多い)
    SX6(T1, T3, SP4, SX4, T8との誤認が多い)
    SO7(T2との誤認が多い)
    SO8(T2, T6, T9との誤認が多い)
    SO9(T2, T3, T6, T7との誤認が多い)

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